子供の頃の話をしようと思う。
正直に言えば、今でも語るのをためらうような記憶だ。夢だったのかとも思うし、作り話のように聞こえるだろうが、これは確かに自分の体に残ってしまった感覚だ。
父の実家は山あいの村にある古い家だった。築百年は下らない、木の色が煤けて墨のように黒ずんだ屋敷。広い座敷に仏間、ガラスの引き戸には波のような歪みがあって、廊下を歩けば板は骨のように鳴いた。夏の帰省で訪れるたび、少し背筋が冷える家だった。
幼い頃の自分と弟にとって、その家には禁じられた場所がひとつあった。地下への階段だ。
祖父母も父も口を揃えて「危ないから降りてはいけない」と強く言った。急勾配で足を滑らせたら命に関わる、という理屈だったのだろう。しかし子供というのは禁じられれば禁じられるほど、その先を覗きたくなる。特に自分は兄という立場があった。弟の前で弱いところを見せたくなかった。
階段は土間の奥にあった。畳の部屋から外れた暗がり、米俵や古びた道具の陰に半分隠れるように口を開けていた。踏み板は細く、まるで井戸へ続く梯子のように急で、下から冷気が這い上がってきていた。
最初は一段、二段。足を掛けるたびに木が軋む音がして、それだけで可笑しくなり、弟と二人で顔を見合わせ「キシシ」と笑った。だが笑いはすぐに渇き、次第に足を踏み下ろすたびに胸がざわついた。息を潜めて数段降りると、土の匂いが濃くなり、背筋にまとわりつくような湿気がまとった。
弟が小声で「ダメだよ、怒られちゃうよ」と言った。
声は怯えていた。けれど自分は兄だった。虚勢を張らないわけにはいかない。内心、喉がからからに乾くほど怖かったのに「大丈夫だ」と強く言った。足を震わせながらさらに下へ降りてしまったのは、その一言のせいだ。
階段を降り切ったところには狭い土間があり、そこから木の廊下が伸びていた。光はほとんど届かず、わずかな隙間から漏れる外の明かりだけが、廊下の板を青白く照らしていた。
廊下は長くはなく、突き当たりには重そうな木の扉があった。黒ずみ、表面はひび割れて、そこに鉄の金具が打ち付けられている。時代劇で見た仙台箪笥の装飾に似ていた。
耳を澄ますと、空気そのものが重く唸っているように感じた。呼吸をするだけで肺が押し潰されそうだった。
弟は上から降りてくるのをためらっていた。
「早く降りてこいよ」と言う声は、自分でもわざとらしいほど強がって聞こえた。弟は泣きそうになりながらも階段を下りてきた。二人して扉の前に立ったが、しばらく言葉が出なかった。子供ながらに「ここは開けてはいけない」と直感していたのだと思う。
それでも沈黙が続くと自分は痺れを切らし、声を震わせながら「開けてみようか」と言った。弟は「怒られるよ」と泣き声を混ぜたが、後に引けなくなっていた。
金具に手を掛けて引いた。びくともしない。
安堵のような、悔しさのような気持ちが同時に湧いた。鍵がかかっていると口に出すと、弟は不思議とすっと顔を上げ、静かに扉に近づいた。彼が金具に指を掛けると、重苦しいはずの扉は「カラカラカラ……」と信じられないほど軽やかに滑り、隙間を開いた。
弟は驚きもしなかった。怯えていたはずなのに、まるで呼ばれるように、すっと暗がりの中に足を踏み入れていった。
――そこからの記憶がない。
次に気づいた時には夕食の場にいた。ちゃぶ台を囲み、祖母が並べた煮物の匂いが漂っていた。
弟は何事もなかったようにご飯を口に運んでいた。自分も箸を握りながら、どこか現実感が欠けていた。頭の奥で「何かがおかしい」と鐘の音のように響いていた。
その夜、布団に入ってしばらくすると、大人たちの慌ただしい声で目が覚めた。
廊下の向こうで両親と祖父母が集まって騒いでいた。何事かと思い覗くと、弟が真っ赤な顔で布団に伏せ、荒い息を吐いていた。額に手を当てた祖母が声を上げ「こっち来ちゃダメ!」と強い調子で言った。母も自分を布団へ押し戻した。理由はわからない。ただ、その必死さに逆らえなかった。
翌朝になっても弟の熱は下がらなかった。医者は「疲れが出たのだろう」とだけ言った。だが夜になると再び大人たちの声が荒れた。母が「今時そんな馬鹿なこと!」と泣き叫ぶように言ったのを覚えている。救急車を呼ぶかどうかで口論していたらしい。
そしてその翌朝、祖父が息を引き取った。
不思議なことに、その瞬間、弟の熱は嘘のように引いた。
布団から起き上がり、まるで何事もなかったかのように元気になっていた。
父は祖父の亡骸にすがり「親父……ありがとう……」と泣いた。母は畳に額をこすりつけるように泣いていた。弟は「さっきまでおじいちゃんと話してたのに」と言って泣いた。
その言葉に背筋が氷のように冷えた。
祖父は夜明けに息を引き取っている。弟が話したという「さっき」とは、いったい何を指していたのか。
思えば、弟の熱が下がったのは祖父が亡くなった直後だった。まるで祖父の命が引き換えになったように。
その後、家族は祖母を引き取ることにし、父の実家は取り壊された。祖母は数年後に亡くなったが、あの地下については一度も語らなかった。父も母も、弟さえも、口をつぐんでしまう。
自分たち兄弟はそれぞれ家庭を持ち、もういい歳の大人になった。けれど、今でもあの出来事のことを口にすることはない。
ふとした時に思い出すだけだ。
夕食の茶碗の音、弟の火照った顔、祖父の冷たい手。
そして、あの時の扉の「カラカラカラ……」という音。
あれが何の音だったのか。
誰が弟を中へ招いたのか。
答えは今も闇の中に沈んでいる。