鹿児島県の大隅半島周辺ではかつて「おっとい嫁じょ」なる奇習が存在した。
地元方言で「おっとる」というのは「盗む」の意味で、「おっとい嫁じょ」を標準語に直訳するならば「嫁盗み」となる。
簡単にいうと、結婚に不同意な女性を強姦して妻にするという驚くべき風習なのだ。
今よりも女性の貞操観念の強かった時代では、強姦された「傷物」の女性は嫁ぎにくくなるため、結果として被害女性もその親も渋々、加害男性との結婚を承諾するということなのである。
そして1959年(昭和34年)この風習が全国的に知られる事件が発生した。
事件の主人公は当時この地方在住の青年A。
Aは婚期になっていたため、義兄の勧めで当時二十歳の女性B子を紹介された。
AはB子に一目惚れし、初対面のその場でB子に結婚を申し込む。その後さらに2回にわたって結婚を申し込んだが、最終的にB子の兄を通じて結婚を断られた。
どうしても諦めきれなかったAが思いついたのが「おっとい嫁じょ」だった。
Aがこの手段に至ったきっかけの1つであろうと思われるのが彼の両親の馴れ初めだ。
そもそもAの母親は結婚前に家族と食事中、Aの父親に拉致され「おっとい嫁じょ」により結婚し、「おっとい嫁じょ」の「申し子」とも言えるAが誕生していたのだ。
結局、Aは従兄、叔父の協力で地元の職業安定所から帰宅途中のB子を拉致、再度結婚を申し込んだが、拒否されたことで知人宅の一室で「おっとい嫁じょ」、つまり強姦に及んだのである。
一室を提供した知人は、予め「おっとい嫁じょ」になることを知って部屋を貸しており、しかもAの強姦後には協力者の従兄と叔父までもが強姦に参加するという、今ならば悍ましいの一言ではすまない事態まで起こっていたのだ。
ちなみに従来から「おっとい嫁じょ」では、相手女性の抵抗を見越して数人の男性協力者が同行しており、彼らがご相伴に預かることは珍しくなかったという。
「おっとい嫁じょ」では、最終的に女性とその両親が加害男性宅に結婚の挨拶に来るというのが習わしで、Aも強姦後に彼女らの来訪を待っていたらしいが、彼の元を訪れたのは警察。結局、強姦致傷罪でAは逮捕された。
だが、本当に驚くべきはここからだ。
Aが逮捕されると、裁判所には多数の地元住民が署名したAへの情状酌量を求める嘆願書が提出された。
さらには「お上は地場の風習に手を突っ込むのか」という警察批判や「自分は子供の頃に『おっとい嫁じょ』に向かう集団の先導で提灯を持ったことがある。何が悪いのか」と堂々と語る地元学校の校長まで現れる始末だった。
弁護人も
「地元で『おっとい嫁じょ』は適法視されており、Aに違法性の認識はなかった」
と主張したが、鹿児島地裁は
「供述調書からはAが『おっとい嫁じょ』の反社会性を認識していたことがうかがわれる」
との理由で懲役三年の実刑を言い渡した。
実のところ呼び名は別にして、同様の風習は明治期頃までは鹿児島に限らず、日本の地方では存在していたが、時代の進展とともに徐々に廃れていったという。
なぜ鹿児島でこの風習が昭和期まで残っていたかは知る由もないが、少なくとも、現在でもこの風習で結婚した夫婦の子供は一部在命している可能性は少なくない。
判決文
昭和34年6月19日鹿児島地裁判
事件の真相~読者さまからの投稿より
昭和34年の事件で馬鹿な男の身内と弁護士がレイプの言い訳に使ったせいで都市伝説化しているが
本当の「おっとい嫁じょ」は「なまはげ」とか「ハロウィン」みたいな村の伝統行事である
地元で先祖代々行われてきた「おっとい嫁じょ」の流れを説明すると
村の子供たちが新婚夫婦の家に行って「嫁を差し出さないと暴れるぞ」と言う
庭には簡単に作った暴れて壊す用の垣根が準備してある
「嫁をよこせ」 「それはやれん」 「じゃあコレをよこせ」 「それもやれん」 「ならアレをよこせ」 「アレもだめだ」
そんな会話をしたあと「これをやるから帰れ」と言って用意していた食べ物を振舞って追い返す
これが「おっとい嫁じょ」で男が嫁を守る儀式であり、ルーツをたどれば「大昔に女をさらう連中がいた」という事なんだろうが
それを理由に「鹿児島ではレイプが当たり前で誰も気にしてなかった、近年まで問題にしなかった」というのは悪質なデマ
その犯人達や署名した住民とやらがヤクザな連中だったというだけで鹿児島の一般人にとっては全く普通ではない
地元の校長が「何が悪い」と発言したと言われているが、実際には
「私も子供の頃に提灯を持って、おっとい嫁じょの行列の先導をした」と言っているので
どのような経緯で言ったかは知らないが、あきらかにハロウィン的行事のほうの話である
ちなみにネット上に散らばる記事のソースはウィキも含めて全てが
事件の新聞記事を拡大解釈した中川善之助を更に脚色した下川 耿史のインチキ本のコピペである
↓当時の調査で 犯人集団のデマだと確定しているもよう。
本件は鹿児島県内のメディアで報じられ、『南日本新聞』では日曜特集のシリーズ「希望する話題」のなかで風習そのものについて調査、掲載された。それによると おっとい嫁じょは第二次世界大戦前までは鹿児島県の一部地域で残っていたものの、事件発生当時はほぼ失われていたとされる。
また風習自体は本来略奪婚ではなく、家庭の事情や経済的な問題からくる合意の上での駆け落ちであったことなどが記されている。また、本件はこの駆け落ちであった風習を歪曲したものだとする考えも紹介される。
↑結局は署名したのは身内だけで 周りは誰も擁護などしていないね
ちなみに、駆け落ち行事としてすら当時は失われていた行事だが
ハロウィン行事としてなら、隣の垂水市高城などでも当時まで残っていた
しかし例の校長の発言の件で叩かれたので、面倒くさくなった教育委員会が何故か謝罪し
「今後このような事が無いように指導します」と無害な行事まで無くされてしまった
これが都市伝説化した流れ
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犯人集団→地元の文化だと主張し仲間や身内に署名を求める
(裁判記録の弁護人というのは弁護士の事で住民じゃない)
裁判長→「その言い訳が通用するか常識で考えろ!有罪!」
(風習が事実かどうかなんて調べてない)
新聞社→犯人の主張と「地元住民」(犯人の身内)の署名が退けられたという記事
(村全体なんて書いてないし署名の人数すら書かれてない)
住民→「まあ、当然の結果だわな、犯人ざまぁ」
(地元住民にとっては、ここで終わってる話)
中川善之助→犯人の主張を鵜呑みにして法学者として法解釈の論文を書く
(自分で調べてない)
法曹界→論文をテキストに法解釈の議論をしたいから事件が事実であった方がいい
(自分で調べてない)
下川耿史→「日本には○○な習慣があった」という本ばかり書いてるので喜んでネタに
(自分で調べてない)
真田秀久→キルギスの事件に関連付けて下川本を丸ごとコピーした記事
(当然、何も調べてない)
三流雑誌→面白がって記事や漫画に
(何も調べてないどころか勝手に脚色・捏造)
週刊実話→最近になって匿名記者が仮名さんのインタビューと称した作文を書く
(仮名さんをどこで見つけて来て、どうやってコンタクトとったと言うのか?)
ネット民→裁判記録も新聞記事も本もネットも同じ事言ってるから本当に違いない!
(大元のソースは全て下川本が由来)
住民→「え?なんで今頃になって俺たちが犯人の同類にされて叩かれてるの?」
(ネット見ない人は今でも叩かれてる事すら知らない「ナニソレ」状態)
裁判記録の「複数の署名」(犯人の身内)を「住民全員」と解釈してるのが最大のミスリード
実際には「犯人集団のデタラメな主張が退けられた」という記録でしかない
何故かネットでは「全住民が署名した」とか「村民が裁判所に押しかけた」とか「群衆が大声で騒ぎまくった」とか
まるで現場を見てきたかのように書かれているがソースはどこにも存在しない完全な捏造・デマ
判決文にも新聞記事にも嘘を広めた下川本にすら、そんな事は一言も書いていない
デマを信じる人たちにネットでソース扱いされて、よく貼られている↓このサイトなんて
(http://anond.hatelabo.jp/20110902232813)
真ん中の四角で囲った部分が裁判記録で、その上下は記事を書いた人の勝手な解釈にすぎない上に
本人も「関連する証拠は見つからなかった」と書いてるのに、なぜかドヤ顔でソース扱いする人が多い
「証拠が見つからなかったから記事にして残そうと思った」というのが、この記事の頭のおかしいところで
韓国の慰安婦映画の監督が「証拠が無いから作ろうと思って撮った」と言うのと同じレベルの捏造である