地図から消えかけた山の集落がある。
舗装の剥げた一車線の道をいくつも折れ、峠を越えた先にひらける小さな盆地だ。いま残っているのは墓石と、壁の崩れた蔵、それに数軒の空き家だけ。夜になれば、街灯の数より星の数のほうが多い。
俺は中学を出ると同時に町を離れ、そのまま県外で暮らした。戻るのは盆か正月に顔を出す程度。就職してからはそれも減り、実家の匂いも、土間の冷えも、次第に遠のいていた。
その春、久しぶりに祖父から電話があった。「たまには帰ってこい」。それだけの言葉だが、妙に柔らかかった。普段は用件だけを短く言って切る人だ。違和感が残り、仕事の区切りもついていたことから、車を走らせた。
峠を下り、集落に入ったとき、まず気づいたのは人の多さだった。車を停めると、玄関先に親戚が並んでいる。盆でも正月でもないのに、叔父も叔母も、普段は見かけない従兄弟までいる。拍手のような手の音があがり、俺は戸惑いながら頭を下げた。
縁側で煙草をくゆらせていた祖父が、ゆっくり立ち上がる。
「よぉ、久しぶりだな。これで祝言の儀ができる」
祝言。結婚式の古い言い方だ。冗談だろうと思ったが、周囲の顔は笑っていない。祖父は続けた。
「老人の道楽だ。付き合え」
その晩の食卓は異様だった。山奥の家に、海の幸が並ぶ。刺身、焼き魚、貝の吸い物。市場まで二時間はかかるはずだ。誰も説明しない。酒が注がれ、皿が空き、会話は少なく、視線だけがやけに多い。
九時を回ったころ、祖父に呼ばれた。離れの小屋へ連れていかれる。中には祖父と、集落の年寄りが数人、車座に座っていた。線香の匂いが濃い。
「彼女はいるか」
唐突だった。いないと答える。さらに問われる。
「誰とも関係はないな」
その意味を測りかねたが、事実を言った。二十代後半で、恋人も経験もない。場を軽くしようと冗談めかしたが、誰も笑わない。祖父がじっと目を合わせる。
「お前は今夜、神と契る」
言葉の温度が低い。拒否という選択肢がある空気ではなかった。
連れていかれたのは、裏手の使われていない離れ。板の間に畳を敷き、布団が二組並んでいる。枕も二つ。桶に水が張られ、衣桁には女物の着物。障子の向こうは真っ暗だ。
「寝ていればいい」
そう言われ、戸が閉まる。酒のせいか、身体は重く、思考も鈍い。布団に横になり、天井の木目を見ているうちに、意識が沈んだ。
夜中、ふと目が覚めた。午前二時過ぎ。音がする。衣擦れ。水が揺れる小さな波音。隣の布団がわずかに沈む。
背中に温もりが触れた。腕が回される。柔らかいが、力は強い。花のようでもあり、湿った土のようでもある匂いが近い。声はない。呼吸だけが耳元にある。
恐怖よりも、抗えない眠気が勝った。目を閉じると、そのまま深く落ちた。
朝、全身が鉛のようだった。筋肉痛に似た鈍痛。喉が渇き、妙に腹が減っている。風呂に入り、朝食をとるころには、身体は軽くなっていた。昨夜のことを誰も話題にしない。
食後、祖父に呼ばれる。
この山には、名を伏せられた女神が祀られているという。集落は代々、その神の婿を迎えてきた。血筋と年齢が合う男が必要だったが、過疎で途絶えていた。
「お前がちょうどいい」
祖父は淡々と言う。
「これからお前は大病もせん。怪我もせん。浮いた話はないかもしれんがな。死ねば神になる」
理屈はない。ただ、周囲の年寄りが静かにうなずいている。反論する言葉は浮かばなかった。恐怖も怒りも、なぜか薄い。すでに何かが終わっている感覚があった。
それから十年。
確かに俺は健康だ。事故にも遭わず、病気もせず、金にも困らない。転職も順調だった。だが、女の縁だけがきれいにない。出会いはあっても、なぜか続かない。気づけば自然に離れている。相手のほうが理由を言葉にできず、去る。
夜、目を覚ますことがある。背中に温もりを感じる。腕が回る感触。呼吸。目を開けても、隣は空だ。だが、布団はわずかに沈んでいることがある。
あの集落は、いまさらに人が減った。祖父も亡くなった。墓前で手を合わせたとき、風が背中を押した。帰れ、とも、戻れ、ともつかない力だった。
俺はあの夜以降、誰とも契っていない。そう思っている。だが、本当にそうかはわからない。
祝言は一度きりではないのかもしれない。神の婿という立場が、人の外にあるのなら、俺はいま何に属している。
童貞かどうかを考えるのは滑稽だ。そもそも、人間の枠にまだ立っているのかが曖昧だ。
夜更け、背中に触れる温もりは、拒めない。
(了)