夜の十時を過ぎていた。留学先のケンタッキー州の町は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
友人から「ビリヤードに行かないか」と電話があり、僕は自転車でバーへ向かった。
広い敷地に建つ家々の窓明かりが、整然と並んでいる。静かすぎる夜だった。音といえば、自分のタイヤがアスファルトを擦る音だけだ。
そのとき、路肩に停まっている一台の車の横に、人影が見えた。ニット帽を被った男が、スプレー缶を振り、車体に何かを書きつけている。黒い塗料が月明かりを吸い込んでいた。
五十メートルほど離れていた。男はまだこちらに気づいていない。僕はペダルを止め、息を潜めた。
次の瞬間、男は服を脱ぎ始めた。上着を投げ捨て、ズボンを下ろし、車のルーフに飛び乗る。鈍い衝撃音が夜に響く。そして、しゃがみ込んだ。
排泄だった。だが、奇妙だった。ただの衝動に見えない。車の中央に正確に位置取り、両腕を前に伸ばし、何かを支えるような姿勢で、じっと動かない。時間が止まったように、数秒、いやもっと長く、同じ体勢のまま。
僕はその光景から目を離せなかった。見てはいけないものを見ている感覚があった。
「行こう」
そう思い、自転車を漕ぎ出そうとした瞬間、カチャン、と乾いた音が夜を裂いた。ベルを鳴らしてしまったのだ。
男の首が、ゆっくりとこちらを向く。暗闇の中で、目だけが光った気がした。何か叫んだ。言葉は聞き取れない。ただ、こちらを指差している。
僕は必死にペダルを踏んだ。背後から足音が迫る。速い。異様な速さだった。裸足のはずなのに、アスファルトを叩く音がはっきり聞こえる。息遣いが近い。
振り返ると、男は下半身を露出したまま走っていた。怒りというより、焦燥に近い表情だった。まるで、途中で何かを中断させられた者の顔だった。
バーの明かりが見えた。友人が二人の女性と立っている。僕は転げ込むように自転車を止め、息を切らしながら状況を説明した。笑い声が上がる。冗談だと思われた。
そのとき、女性の一人が僕の背後を指差した。
「来てる」
振り返る。いた。ニット帽の男が、一定の速度で近づいてくる。走っているのに、足取りがぶれない。視線だけが、まっすぐ僕に向いている。
友人が前に出る。男は三十メートル手前で止まった。距離を保ったまま、何も言わずに立っている。下半身はむき出しのままだ。
奇妙なことに、怒鳴らない。近づかない。ただ、見ている。
バーから数人が出てきた。ざわめきが広がる。それでも男は動かない。まるで、何かを待っている。
遠くでサイレンが鳴った。赤と青の光が住宅街を染める。パトカーが止まり、警官が降り立つ。男は抵抗しなかった。最後まで僕を見たまま、手錠をかけられた。
その目に、怒りはなかった。
数日後、あの車がどうなったのかを知りたくなり、同じ道を通った。車はなかった。跡も残っていない。塗料の痕も、何も。
ただ、アスファルトの中央に、円形の薄い染みがあった。雨が降ったはずなのに、そこだけ色が違う。
夜、自転車に乗るとき、ベルが鳴らない。押しても音が出ない。壊れたのだと思った。
だが、住宅街を走っていると、ときどき背後でカチャン、と鳴る。
振り返っても、誰もいない。
あの夜、男は何をしていたのか。なぜあの車だったのか。なぜ途中で止められたことを、あれほど悔しそうに見えたのか。
そしてなぜ、あの目は、警官ではなく、僕だけを見続けていたのか。
今でも、夜道でベルの音がすると、振り返らずにはいられない。
(了)