あの寺に勤めてから、夜というものの形が変わった。
昼間は観光客で溢れる。文化財の仏像、古い梁、磨き上げられた廊下。だが門を閉め、最後の参拝者を送り出すと、建物は急に静かになる。音が消えるのではない。こちらの音だけが浮くようになる。
最初の夜番は、大広間の通夜だった。
鉄道で命を絶った女性。白木の棺は祭壇の中央に据えられ、花に囲まれていた。遺族は読経のあと帰り、堂内には私だけが残った。寺の決まりで、遺族は泊まらない。職員が交代で番をする。
夜半を過ぎたころ、「ガタン」と鳴った。
奥のほう。供花のあたりだ。
動物だと思った。裏は森で、イタチやアライグマが入り込むことがある。懐中電灯を持ち、祭壇へ向かう。
花が数本落ち、供物が床に転がっている。棺の蓋が、わずかにずれていた。
内側から押したような、ずれ方だった。
私は迷ったが、持ち上げた。
中は空だった。
白布も遺体もない。底板だけが、ひどく新しく見えた。
恐怖より先に、報告の段取りを考えた。遺体が消えたなど、寺の問題では済まない。
別棟に泊まっていた先輩を起こす。事情を話しても、顔色は変わらない。
「見に行こう」
二人で戻ると、棺は元の位置に収まり、蓋も閉じられていた。
先輩が開ける。
女性は、眠っているように横たわっていた。
「寝ぼけてたんだろ」
それだけ言って、先輩は戻った。
私は寝ぼけていない。広間の灯りも、消していない。だが戻ったとき、半分ほど落とされていた。
それ以来、大広間には近づきづらい空気がある。
だが寺で妙なのは、あの夜だけではない。
元控えの間を休憩室にしているが、深夜になると壁の四方から声が滲むという。内容は分からない。ただ、重なっている。
廊下では裸足の足音が響く。乾いた床板を踏む、軽い音だ。姿は見えないが、「小さな女の子」という像が頭に浮かぶ。私も一度、夜の巡回でその足音を聞いた。視界の端に白いものが動いた気がしたが、確かめなかった。
堂内を歩く見知らぬ僧の姿もある。同僚は「木魚さん」と呼ぶ。木魚を叩く仕草をするからだ。だが誰も、正面から顔を見ていない。
一番はっきりしているのは、位牌堂だ。
法要の練習で木魚を叩いていた夕方だった。地下にある位牌堂には、墓に納められていない遺骨や無縁仏の位牌が並んでいる。
ポク、ポク。
一定の調子で叩いていると、別の音が混じった。
ポク、ポク、ドン。
重い打撃音。堂は閉めている。誰もいない。
音は地下からだった。
階段を降りる。薄暗い位牌堂の中央で、男が転がっていた。
顔は青白く、口元に血をにじませ、何かに追われるように丸まっている。壁にぶつかり、また床を打つ。その衝撃が「ドン」だった。
私は叫んだ。
「待っててください。すぐ呼びます」
事務所に駆け戻り、職員に伝える。
「血を吐いてる男が地下にいます」
書類から目を上げずに、相手は言った。
「ああ。その人はすぐ消える」
聞き返す前に、足が止まった。
戻らなかった。戻れなかった。
翌朝、位牌堂は整えられていた。血の跡もない。階段も、手すりも、いつも通りだった。
あの男が生きていたのかどうかは分からない。ただ、私には生きている人間にしか見えなかった。
夜の巡回で、参拝者のような背中を見ることがある。門は閉まっている。声をかけると、足音だけが遠ざかる。
ときどき思う。
私が見ているのは、寺に残ったものなのか。それとも、ここにいるはずのない私のほうが混ざっているのか。
棺の中が空だった夜から、堂の音は少しだけ変わった。
静寂の底で、木魚の調子に遅れて、重い音が返る。
ポク、ポク。
ドン。
そしてもう一度。
ポク。
――今、叩いているのは、誰だ。
[出典:441 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/07/21(金) 21:59:44.66 ID:7B8pxZZ00.net]