今でもあの夜の匂いを思い出すと、胸の奥がざわつく。
それは埃っぽさと、湿った土、そして僅かな鉄錆が混ざったような、団地の夜に特有の鈍い匂いだ。友人のMが語った、あの出来事の中心にあるのは、その匂いと、夜気の中で揺れるブランコの微かな金属音だった。
七月の末。日付が変わる直前の、団地特有の、濃く湿った夜気がアスファルトを覆っていた。
駅前から続くメインストリートは既に街灯もまばらで、コンクリートの巨大な箱のような団地群が一様に影を落としている。Mはいつも通り、自宅への最短ルートとして、この団地の中央広場を突っ切っていた。勤務先の残業で普段より一時間以上遅い帰宅となり、その苛立ちが歩幅を広くしていたという。
一号棟、二号棟と、ベランダの向こうにわずかな生活の灯りが点滅するのを視界の端に捉えながら進む。団地は総じて古い。コンクリートの壁は雨筋とカビで薄黒く、夏場でもどこかひんやりとした冷たさを保っている。夜になると、その冷たさが濃密な湿気と共に立ち上り、皮膚を覆う。
周囲にはほとんど人影がない。普段は夜九時頃まで広場や公園で遊ぶ子供たちの声や、買い物帰りの主婦が引くキャリーカートの車輪の音が響くのだが、この時間帯は沈黙が支配していた。聞こえるのは自分の足音と、近くを走る幹線道路の低い騒音だけだ。
三号棟と四号棟の間に挟まれた小さな公園に差し掛かった。そこは砂場と、青く塗装された鉄製のブランコと、一本の年老いた楠木があるだけの、何の変哲もない空間だった。街灯は一つだけ、公園の隅に立っているが、光量が弱く、砂場の中心には黒々とした影が落ちていた。
公園を通り過ぎようとしたその時、楠木の下に、不自然に宙に浮いた黒い塊をMは捉えた。最初は誰かが忘れた大きな荷物か、あるいは子供の悪戯で取り付けたゴミ袋か何かだと思った。視線はその不鮮明な影を一瞥し、すぐに前方の帰路へと戻ろうとした。
しかし、その塊が風に揺られて、不規則に回転した瞬間、Mの皮膚が粟立つのを感じた。鉄錆の匂いが微かに、公園の奥から流れ込んできたような気がした。鉄製の遊具のそれではなく、もっと生々しい、濃い匂い。歩みを止め、目を凝らす。
街灯の死角に立っていたその「塊」は、明らかに細長い人型をしていた。そして、その人型の頭部は、太いロープのようなもので楠木の枝から吊り下げられているように見えた。Mの足元が一瞬にして砂のように崩れる感覚に襲われた。
Mの最初の反応は、恐怖よりもむしろ「面倒くさい」という、極めて現実的で冷めた苛立ちだった。
仕事の疲れと、早く家でシャワーを浴びたいという切実な欲求が、目の前の異常事態を処理すべき「問題」として認識させた。恐怖は後から押し寄せてくるものだと、Mは後に語っている。
息を詰め、もう一度目を凝らす。街灯の薄い光と、団地のベランダから漏れる光が、宙吊りの影のディテールをぼんやりと浮かび上がらせる。女性のようだった。服装は地味なブラウスにスカート。足先は砂場からわずかに浮いて、ゆっくりとした弧を描いて揺れていた。
「何でこんな時間に、こんなもんを」——口の中で小さな悪態を吐いた。パニックにはならなかった。Mは学生時代から、時折、一般の人には見えないものを見てしまう体質があり、その度に異常な出来事に対して一種の「諦め」のような客観性を身につけていた。目の前の出来事も、彼の経験上、その手の範疇に含まれる気がした。
持っていたスマートフォンをポケットから取り出す。指先が冷たく、震えそうになるのを抑え、警察の三桁をダイヤルした。呼吸は浅く、早くなっていたが、声は驚くほど冷静に、場所と状況を淡々と伝えた。「団地の公園で、首吊りを発見しました。場所は三号棟と四号棟の間です」
通報を終え、Mは公園の入り口に立っている古びたベンチに腰を下ろした。楠木と、その下の砂場を正面に見据えられる位置だ。動くことができなかった。恐怖が完全に麻痺していたわけではない。ただ、現場を離れることへの「不義理」のような感覚、あるいは逃げ出すことで自分がこの出来事の一部でなくなることへの漠然とした不安があった。
待っている間、全身の汗が引いていくのを感じた。夜気は湿っているのに、自身の体温だけが急速に失われ、薄いシャツの下で鳥肌が立つのを感じた。楠木から砂場へ、風が微かに吹き抜けるたびに、宙吊りの影がほんのわずかに揺れる。それはまるで、誰かが忘れ去ったオブジェが、夜の空気によって動かされているかのようだった。
警察が到着したのは通報から十五分後だった。
パトカーの赤灯が団地のコンクリート壁に反射し、陰影を不規則に揺らす。公園はあっという間に非日常の舞台へと変貌した。鑑識、捜査員、そしてどこからともなく現れた野次馬たち。Mは「第一発見者」として、すぐに事情聴取を受けることになった。
聴取は、あの楠木の下の砂場を正面に見据えるベンチで行われた。Mが最初に腰を下ろした、まさにそのベンチだ。隣には、顔色の冴えない中年の刑事が座り、Mに発見時の状況、時間、ルート、そして女性との面識の有無について、何度も繰り返し質問した。
「本当に、この女性を見たのは初めてですね?」「ここを通る時、何か不審な物音や人影は?」「通報直前、彼女はまだ生きていた可能性は?」—質問は機械的で、Mが答えるたびに刑事は手元のメモ帳に短い文字を走り書きした。Mは自分の冷静さとは裏腹に、疲労からか言葉が上手く出てこなかった。
結局、その日は夜が明ける前に帰宅を許されたが、心身ともに消耗しきっていた。家に帰っても、壁に映る団地の影や、湿った匂いが頭から離れず、仕事どころではなかった。そのまま、硬い布団に潜り込み、重い鉛のように眠りについた。
翌朝、会社へ向かう準備をしている最中、警察署から電話がかかってきた。昨日の刑事の声だ。妙に落ち着きがなく、口調が硬い。「すぐに署に来てほしい。見てもらいたいものがある」と、理由を濁す。Mは抵抗した。「昨日、全て話しました。今日は会社があるので」と答えたが、刑事は「そうじゃない。非常に重要なものだ」と、ただ繰り返すばかりだった。その異様な様子に、Mは渋々、会社に遅刻の連絡を入れ、警察署へ向かうことになった。
署に着くと、昨日の刑事が廊下で待っていた。その顔は昨夜の疲労とは違う、もっと深い、困惑と不安に歪んでいた。通されたのは薄暗い取調室ではなく、資料室のような雑然とした部屋だった。Mが問い詰めるより早く、刑事は堰を切ったように話し始めた。
「遺族が、故人の遺書を探していたんだがね。遺書は無かったが、代わりに、変なものが出てきてしまって……」そう言って、刑事は茶封筒から一冊のスケッチブックを取り出し、Mの目の前のテーブルに押し出すように置いた。
Mは刑事の顔を見ることなく、スケッチブックの表紙に手を伸ばした。
表紙は使い古され、角が丸くなっていた。ページをめくる。最初の数枚は、静物デッサンだった。果物、石膏像、古い椅子。確かに、美術を学んでいた人間の描く、精緻な線だった。Mは奇妙な違和感を感じながら、ページを繰り続けた。
そして、不意に、その一枚の風景画が目に飛び込んできた。
そこには、見慣れた団地の風景が描かれていた。公園の砂場。青く錆びたブランコ。画面左には、Mが昨夜、恐怖と苛立ちを感じた楠木が、その枝を広げている。そして、その楠木の太い枝から、一人の女性が吊るされていた。筆致はデッサンと同じく正確で、夜の暗さの中で、女性のブラウスとスカートのディテールまでがはっきりと見て取れた。
「これは……」Mは呻いた。そのスケッチは、昨夜の光景そのものだった。
しかし、絵はまだ終わっていなかった。画面の手前、砂場を見据える位置にあるベンチには、二人の人影が座っていた。一人は地味な服装の青年。もう一人は制服を着た男。青年は下を向き、制服の男は手元のメモ帳のようなものに視線を落としている。
その瞬間、Mの背筋に冷たいものが走った。青年は、昨夜の自分だ。そして制服の男は、隣に座っていた刑事に瓜二つだ。
「これ、いつの絵なんですか」Mは掠れた声で尋ねた。刑事は言葉に詰まり、口ごもった。「故人の机の鍵のかかった引き出しから出てきた。指紋は故人のものだけだ。作成時期は、今のところ特定できていない」
Mは絵を凝視した。描かれた日付も署名もない。描かれた風景は、昨夜、自分がまさに体験したその「瞬間」だった。描かれていたのは、首吊りを発見する前の風景ではない。発見後の、警察が来て、自分が事情聴取を受けている、あのベンチの「光景」だった。
「これを見せられて、どうしろと。私はこの女性とは面識がない。私が発見した後を描いた絵が、なぜその女性の遺品から出てくるんですか!」Mは半ばパニックになりながら、刑事の困惑した顔に問い詰めた。
刑事もまた、混乱の極致にあった。「それは我々も知りたい。君が女性を突き放して見ていた、あの時の様子を、まるで上空から見下ろすように、このスケッチブックの持ち主は描いていたんだ」
その言葉で、Mははっとした。この絵の視点は、ベンチに座る自分たちの背後、あるいは、楠木の上から見下ろすように描かれている。まるで、その場にいる誰か、あるいは何かが、自分たちを観察し、その時間を記録していたかのような視点だ。
Mは絵を強く握りしめた。砂場を見つめる自分の絵姿。その横で座り込む刑事の姿。そして、自分たちの眼前に広がる、宙吊りの影。
ふと、Mの脳裏に、妙な考えがよぎった。もし、あの夜、ベンチに座っていた自分と刑事の他にも、何かがその場にいて、その出来事を記録していたとしたら?そして、その「何か」とは、もしかしたら、このスケッチブックの持ち主、つまり、宙に吊るされていた女性自身なのではないか?
遺書がない自殺。スケッチブックには故人以外の指紋なし。そして、発見者であるMが事情聴取を受けている最中の光景が描かれている。
Mはゆっくりと目を閉じた。あの夜、ベンチで感じた全身の冷え。あの鉄錆の匂い。あれは、単なる夜気や遊具の錆ではなく、彼女の、自身の死後の風景を描き切ろうとする、異常な熱意が発散していた、冷たいエネルギーだったのではないか。
スケッチブックを刑事に戻した。Mは何も語らなかった。結局、事件は自殺として処理され、スケッチブックの謎は放置されたままとなった。だが、Mの心には、一つの確信が残った。あの夜、Mが見たのは、彼女の「過去の死」ではなく、**彼女が描き終えたかった「未来の光景」**だった。そして、彼女は、その絵の中に、Mを、観客として、あるいは証人として、組み込んでしまったのだ。
Mがベンッチに座った時、彼女は既に、その光景を描き終わっていた。そして、Mと刑事は、彼女の最後の「作品」の中で、役者として演じさせられていただけなのかもしれない。彼女は、死の瞬間に、未来を、そしてその結末の目撃者を、完璧にスケッチブックに固定させたのだ。彼女の目は、楠木の枝の上から、あるいは、描かれたベンチの上から、今もMの行動を見守り続けている気がしてならない。
[出典:814 :その1:02/12/05 17:12]