新しい就職先に選んだのは、「もじもじ社」という会社だった。
ビルの入口にはその四文字だけが貼られている。業務内容は一切説明されなかった。ただ面接で一つだけ言われた。
「目立たない方が向いています。」
初出勤の日、机の上に紙が一枚置かれていた。
《文字を補充してください》
隣の社員は無言で本を開き、指先で紙面をなぞっている。次の瞬間、その本の一文字が薄くなり、消えた。そして机上の広告原稿に、その文字が浮かび上がった。
説明はない。
理由もない。
ただ、そういう仕事だった。
私は雑誌の記事から余分に見える言葉を一つ抜き、広告の空白に置いた。誰も気づかない。どこにも証拠は残らない。ただ、世界のどこかの文章が少し変わる。
やがて慣れた。
長い説明文が短くなり、看板が読みやすくなり、投稿の冗長な語尾が削られていく。そのたびに、世界が少し整う気がした。
ある日、急な指示が回った。
《資料番号A-17 補充》
歴史資料の一節だった。
私は指示通り、目立つ部分から文字を抜いた。
翌週、新聞が騒いだ。
その資料から「降伏を選ばず」の四文字が消えているという。文はこうなっていた。
《〇〇大名は壮絶な最期を遂げた》
意味は通る。だが、何かが違う。
社内は静まり返った。上司が言う。
「外に漏れるな。存在が知られたら終わりだ。」
その夜、自宅で履歴書を開いた。
自分の保存用コピーだ。
《志望動機》の欄が、一行分だけ空白になっていた。
書いたはずの言葉が消えている。
翌朝、社員の一人が来なかった。
机には名札だけが残っている。名札にはこうあった。
《 田 》
姓の中央が抜けている。
誰も口にしない。
だが皆わかっている。削られているのは、外の文章だけではない。
退社時、上司が低い声で告げた。
「会社は解散する。今後このことを口にするな。さもないと、次に補充されるのは――」
そこまで言った瞬間、上司の口元がわずかに揺れ、最後の語が抜け落ちた。
帰宅して、この出来事を書き残している。
念のため、全文を保存した。
だが今、画面の中で、いくつかの文字が薄くなっている。
この文章も、もうすぐ読みやすくなるかもしれない。
(了)