湿った苔と、古びた樟脳が混ざり合ったような匂い。
記憶の蓋に指をかけると、まずその粘着質な嗅覚が蘇る。私の生まれ育った土地には、山の中腹にへばりつくようにして建つ古い神社があった。観光ガイドに載る由緒などなく、鳥居の朱は風雨で黒ずみ、参道の石段は欠け、隙間から生命力の強い雑草が奇怪なほど青々と伸びている。正月と祭りの日以外、地元民ですら近寄らない。昼でも薄暗く、樹齢数百年の杉が光を遮り、足元には濃い影が溜まっていた。
その神社には、奇妙な不定期の「催し」があった。結婚式、あるいはその前後の何か。神主が祝詞を上げることはない。親族の笑い声もない。ただ白無垢の花嫁と紋付袴の花婿が、砂利を踏みしめて本殿へ歩くだけの静かな行列だ。誰の式かは語られない。氏子の大人たちは、その日が来ると子供を参道脇に並ばせ、「お通りだ」とだけ言った。
子供には役目があった。祝福である。行列が目の前を通る瞬間、花嫁に声をかける。ただし、そこには不可解な掟があった。大人は口出ししない。選ぶのは子供だと教えられた。理由はなかった。理由を聞くと、誰もが黙った。
声は二つに限られていた。
「綺麗ですね」
「綺麗な着物ですね」
どちらを言うかは、その場で決める。沈黙は禁止。嘘も禁止。なぜそうなのかは教えられなかった。代わりに、結果だけが語られた。間違えると、翌日から声が掠れる。目が乾いて瞬きができなくなる。あるいは、夜に自分の名前が聞こえなくなる。どれも因果が曖昧で、具体的なのに説明がない。だから子供は従った。理解ではなく、回避として。
この催しは年に数回あったが、「綺麗な着物ですね」が選ばれることは多かった。子供の間では噂が回った。ここの神様は余り物を好む、だからだと。真偽は不明だが、通る花嫁たちは幼い目にも個性的だった。厚塗りの白粉でも隠れない凹凸、不自然に吊り上がった目、長すぎる顎。参道に並ぶ前から「今日はどっちだ」「たぶん着物だ」と、無邪気で残酷な賭けが始まる。
境内の空気は淀んでいた。風が通らない。湿気と匂いが逃げない。夏は特に酷い。肌にまとわりつく湿度は、生温い膜で包まれるようで、ヒグラシの声が耳の奥で反響し、平衡感覚を削った。あの日もそうだった。私が小学二年生の、梅雨の晴れ間。
早朝、集落の有線が六時に「お通り」を告げた。私はケンタとマサシと、三の鳥居付近に立たされた。半ズボンの脚は藪蚊に食われ、痒みに耐えながら不機嫌が募る。知らない誰かのために日曜の朝を潰される理由が分からなかった。今日は空気が重い。息を吸うと、喉の奥に鉄錆の味が残る。
「まだかよ」
「静かにしろ」
マサシは青白かった。迷信に一番敏感な家の子だ。私は苛立っていた。どうせ今日も「着物」だ。声を揃えて言い、大人から駄菓子をもらって終わり。それだけのはずだ。
だが大人たちの様子がおかしい。いつもは世間話をする老人たちが、今日は口を結び、参道の先、拝殿の暗がりを凝視している。祝いではない。警戒だ。檻が開くのを待つ目。背筋に冷たい汗が流れた。鼓動が不快な速さになる。私は無意識にTシャツの裾を握りしめた。今日は、適当に合わせてはいけない。理由は分からないが、空気が曖昧さを許していなかった。
砂利の音がした。規則正しく、ゆっくり。鳥の声が止み、蝉も消えた。静寂が肩にのしかかる。
霧の向こうから、白い塊が現れた。白無垢だ。露払いはいない。花婿は俯き、罪人のような歩調で歩く。対照的に、花嫁の歩みは滑らかだった。風もないのに、綿帽子がわずかに揺れる。
距離が三メートルに縮まる。私は顔を見た。
息を呑んだ。美しい。陳腐な言葉が追いつかない。陶磁器のような白い肌、涼やかな切れ長の目、吸い込まれる漆黒の瞳、鮮烈な紅。テレビの誰よりも上だ。恐怖も不安も消え、ただ見惚れた。迷いはなかった。
息を吸う。隣の二人も同じだろう。花嫁が通過する瞬間、声が重なった。
「綺麗な着物ですね!」
「綺麗な着物ですね!」
「……綺麗ですね!」
私の声だけが違った。異物のように浮く。私は隣を見た。ケンタもマサシも蒼白で、憧れではない目で花嫁を見ている。絶望的な恐怖。マサシは失禁していた。
なぜだ。どう見ても美しい。思考が混乱する。花嫁が立ち止まった。首がゆっくり回り、私を見る。彼女は笑った。慈愛に満ちた笑み。胸が熱くなる。気づいてくれた。喜んでくれた。
背後で大人が息を呑む音がした。祈るような囁き。花嫁は数秒私を見つめ、前を向き、歩き出した。砂利の音だけが残る。
行列が消えると、マサシが泣き崩れ、ケンタはへたり込んだ。私は立ち尽くした。禁忌を犯したのか、正解を言ったのか、分からなかった。
翌日、教室に見えない壁ができた。入った瞬間、ざわめきが凍る。休み時間、私はケンタを捕まえた。
「昨日のことだけど」
「話しかけるな!」
恐怖の声だった。
「嘘つきだ。あんなの見て、よく綺麗だなんて言えるな」
「本当に綺麗だった。白くて、目がぱっちりしてて」
「ふざけんな。目なんてなかったぞ!」
言葉を失った。
「顔の真ん中に、縦に裂けた口だけだ。黒いのが垂れてた。マサシは中で虫が動いたって泣いてた。見えなかったのか」
周囲も頷く。全員が「着物」を選んだ理由。着物以外、視線を置ける場所がなかったからだ。防衛だった。
私は孤立した。どれだけ言っても信じられない。「あちら側だ」と囁かれた。大人も、叱らず、憐れむように、拝むように道を譲った。
二十年が経った。
東京で働き、人並みに暮らした。神社には戻らなかった。記憶は忙しさに埋もれた。私は結婚を約束した。ユキという。受付で見た瞬間、惹かれた。白い肌、涼やかな目、濡れた黒髪。控えめで、寄り添う笑み。写真を見せると同僚は言葉少なになるが、美しすぎるからだと思った。
先週、報告のため実家へ帰った。玄関をくぐった瞬間、両親の表情が凍った。参道で見た、あの顔だ。居間の沈黙。私は明るく紹介した。
「綺麗だろう?」
母の手が震え、父は湯呑みを握ったまま、視線を彼女の服の裾に落とした。
「……とても、綺麗な、服だ」
背筋が粟立つ。記憶の蓋が弾ける。匂い、湿気、掟。綺麗な、服だ。綺麗な、着物だ。
私は恐る恐るユキを見る。私には変わらず美しい。彼女は気づき、あの時と同じ慈愛の笑みを向けた。その瞬間、気づいてしまった。彼女の造作は、私が「美しい」と刷り込まれてきた要素の寄せ集めだ。都合がよすぎる。
私はB専ではない。感覚は正常だった。だが、あの日から書き換えられていたのだとしたら。人でないものを、最も美しいと認識するように。彼らが私を選ぶため、私の「美」をなぞって擬態しているのだとしたら。
ユキが音もなく手を重ねる。冷たい。
「嬉しいわ。褒めてもらえて」
私の目には美しい彼女が微笑む。だが両親の目には、何が座っているのか。確かめる勇気はない。信じるしかない。私は震える手で、冷たい手を強く握った。
「……ああ。本当に、綺麗な服だね」
彼女の顔が、私の目には美しく見えるその顔が、嬉しそうに、にちゃりと歪んだ気がした。
(了)
[出典:1616 :本当にあった怖い名無し:2021/05/14(金) 21:29:28.48 ID:gGB+PRkB0.net]