死んだ祖父の話だ。
いや、あれが本当に「死んだ」と言えるのかは、正直、俺にもわからない。
八十四歳で息を引き取った。
戦後の焼け跡から這い上がった世代で、背中には見事な不動明王の入れ墨が彫られていた。
あの時代の人間らしい、黙って不器用なまま貫き通すような頑固者だったが、
老いてからは半分壊れたようになって、家の一室で寝たり起きたりの生活になった。
介護が大変だったかと言えば、そうでもない。
暴れるでもなく、夜中に徘徊するわけでもない。トイレも自分で行っていた。
ただ、徐々に食が細くなって、次第に顔色も痩せた布みたいになっていった。
食事の世話は、俺の嫁がやってくれていた。あいつには頭が上がらない。
それがある日。忘れもしない、春の朝だ。
まだ冷たい光の中、台所でパンを焼いていたら、
パタン、と襖の音がして、祖父が背筋をしゃんと伸ばして立っていた。
まるで何年か前の元気だった頃に戻ったみたいに、ぴんとした背筋で歩いてきて、
「鏡を買ってきてくれ」
とだけ言った。
あまりに唐突で、一瞬、意味がつかめなかった。
「部屋に鏡が欲しいのか?鏡台持ってこうか?」と訊いても、
首を振って「庭に据えるんだ」と。
庭に鏡……?
言ってる意味はわからなかったが、その目は妙に澄んでいて、拒否する気にはならなかった。
そして続けて、ぽつりと呟いた。
「あれが……入ってこようとしてる。ひっ返させねばならん」
意味はわからない。けれどその声は、冗談のようには聞こえなかった。
「“あれ”って何だ?」と訊いても、祖父は何も言わず、ただじっと外を見ていた。
仕方がないので、その日の帰り、近所のホームセンターで五十センチ四方の鏡を買った。
祖父が望んだ通り、シンプルな壁掛け用のやつだ。
渡すと、祖父はそれを抱えて庭に出ようとする。
夜だったし、転ばれても困るので、俺が手伝って一緒に庭に出た。
うちは田舎の家で、庭はやけに広い。
敷石が門まで数メートル続いていて、その両側には松やツツジ、季節の草花が植えられている。
その中で祖父は、敷石を外れた場所──ちょうど一階のベランダの前を指さして「ここだ」と言った。
言われたとおり、そこに穴を掘り、ゴロタ石で支えて鏡を立てた。
ガーデニングにはうるさい嫁が眉をしかめていたが、祖父は満足そうに鏡をじっと覗き込み、
口元に笑みを浮かべて、何も言わずに家に戻った。
それからというもの、祖父の日課がひとつ増えた。
夕方になると、庭に出て鏡をボロ布で磨く。
雨ざらしの鏡は、当然水滴で曇る。
それを祖父は律儀に拭くのだ。
寒い日も、風の強い日も、決して欠かさなかった。
数日後、また新たな要求が出た。
「常夜灯を買ってきてくれ」と。
鏡の前を照らすスポットライトのようなものが欲しいと。
夜でも鏡に何かが映るようにしたい、と言うのだ。
「何が映るって言うんだ」と思ったが、祖父の目があまりに真剣なので、
また俺はホームセンターに行って、簡易の照明を買ってきた。
その日から、鏡の前は夜になると淡く照らされるようになった。
それでも特に何かが起こるわけではなく、俺たちは日常を続けていた。
季節が巡って、祖父はとうとう寝たきりになった。
病院に入ることになり、そのまま意識が混濁していった。
いよいよ臨終、というとき。
あの頑固な祖父が、酸素マスクを自分で外し、最後の力をふりしぼって俺に言った。
「鏡を……俺の四十九日が終わるまで……動かすなよ」
それが祖父の最期の言葉だった。
葬式が終わり、四十九日が過ぎた。
そろそろ鏡を片づけようかと庭に出ようとしたとき、嫁が俺の袖を引いた。
「ちょっと、あの鏡、本当に片づけて大丈夫かな……」
「何だよ、急に」
「この前の夜ね、十時くらいに外に出たの。洗濯物取り込み忘れてて。
そしたら……あの鏡の前に、女の人がいたのよ」
「誰だ?」
「見たことない人……うずくまったまま、這うように鏡の前に来たの。
ボロボロの服で、頭にスカーフ巻いてて、なんか、時代劇みたいな……」
その女は、鏡の前でぴたりと止まり、鏡を覗き込んだ瞬間、
「ヒッ」と短く悲鳴をあげて、そのまま、ふっと、消えたのだという。
俺は冗談だと思ったが、嫁の顔は真っ青だった。
「追い返されたように見えた」と彼女は言った。
そんなことがあって、鏡はすぐには片づけられず、さらにしばらく庭に残された。
けれど一ヵ月、何も起こらなかった。
ようやく撤去する決心をして、鏡を裏返すと──
台座の石の下から、古い五円玉がひとつ出てきた。
妙に黒ずんで、腐ったような匂いがした。
祖父の若い頃の写真を見ようと思って、古いアルバムを引っ張り出してみたが、
一枚もなかった。
親戚に訊いても、「昔のことはあまり話さなかったねえ」と言うだけだった。
嫁が言うには、庭に来た女は「笠置シヅ子みたいな格好だった」と。
それはつまり、戦後間もない頃の服装ということだ。
祖父が青春を過ごした、あの混沌の時代。
だけど──なぜだろう。
あの鏡を片づけた日の夜。
窓の外で、何かがふと動いたような気がして、カーテンをそっとめくって覗いたとき──
鏡のあった場所の土が、妙に柔らかく盛り上がっているように見えた。
翌朝、スコップでそこを少し掘ってみたが、何も出なかった。
ただ、指先に何かざらりとしたものが触れた気がして、それきり、やめた。
もう二度と、鏡は置かない。
たとえ誰が望んだとしても。
[出典:54 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/09/12(火) 18:09:06.28 ID:kaCSdF3u0.net]