高校時代の知り合いの話だ。
一人で山を歩くのが好きだった彼は、毎週末になると近郊の山々を訪れていた。あの日も例外ではなかった。晴天に恵まれた山道で昼食のビールを楽しんだ後、ほろ酔い気分で足取りも軽く進んでいたらしい。
しばらく歩くと、道が狭まり、片側が急な崖になった場所に差し掛かった。崖の下にはごつごつとした岩盤が見え、酔いに任せて彼はふらりと身を乗り出した。その瞬間、足元が滑り、あっという間に崖下へと転落してしまった。
岩盤に叩きつけられた彼の体には、右足の激痛と胸を締め付けるような苦しみが襲いかかった。動くことも声を出すこともままならないまま、彼は岩盤の上でただ横たわっていた。陽は沈み始め、周囲は薄闇に包まれていく。時折、上の道を誰かが通る気配はあったが、崖の下にいる彼には気づく様子がなかった。
しばらくして、どこからか人の話し声が聞こえてきた。複数の人が何かを話している。しかし、声の方向が奇妙だった。上から聞こえるはずがないのに、それは崖のさらに下、細い川が流れるはずの足場もない場所から響いてくる。
「助けを呼ばなきゃ」と思ったが、声はかすれるばかり。それでも必死に声を絞り出していると、声の主たちが徐々に近づいてくるのがわかった。何を言っているのかは聞き取れない。日本語のようだが、妙に耳に残る不気味な響きで、内容がまったく理解できなかった。
恐怖に震えながら、彼はリュックに付けていたお守りを手探りで握り締めた。そして心の中で「来ないでください」とひたすら念じ続けた。やがて彼の意識は途切れ、気がついたときには病院のベッドに横たわっていた。
医師によれば、崖の上で写真を撮っていた登山者が彼を偶然発見し、通報してくれたのだという。しかし、不思議なことに、彼の手にはずっと握りしめていたはずのお守りがなかった。病院のスタッフに聞いても、「お守りなんて持っていなかった」と言われたという。
後日、彼から直接話を聞いたとき、「助けてくれた人の声だったんじゃないの?」と冗談交じりに聞いてみた。彼は少し考え込んだ後、低い声で答えた。
「発見してくれた人は一人だったって。でも……あの話し声、何を言ってるのか全然わからなかったんだよ。ただ、すごく気持ち悪かった」
頭に直接響くような異様な言葉の響き、理解できないのに日本語に似た抑揚。その奇妙さを思い出すと、彼は震えた声でこう締めくくった。
「思い出すだけで鳥肌が立つんだ……」