某県に住む吉野さん(仮名)から聞いた話。
吉野さんの地元は温泉で有名な土地だが、決して足を踏み入れてはならないとされる温泉があるという。いわく、昔掘削作業中に事故があり、多くの死傷者を出した場所だったそうだ。
都会の大学に通っていた吉野さんが、夏休みに田舎の実家へ帰省した際のこと。幼馴染であり農家を継いだ岡田、地元の大学に進学していた矢倉と久しぶりに再会し、酒を酌み交わした。夜も更け、解散しようとしたそのとき、ふと、あの温泉のことが頭をよぎった。理由は分からない。ただ、小学生の頃に三人でその温泉へ忍び込もうとし、地元の男に怒鳴られ、親に連れ戻された記憶が甦った。
「大人になったら入ってもいいの?」
当時、母にそう問うたことがある。冗談交じりの返答だったろうが、その言葉がずっと頭の片隅に残っていた。そして今、無性にあの温泉に行きたくなった。
酒の勢いもあったのか、二人も同意した。岡田によれば、近年は昔ほどタブー視されておらず、観光客が誤って立ち入ることもあるが、特に異常は起きていないという。日を改めて、昼間に向かうことに決めた。
三日後、三人は問題の温泉がある山へ向かった。かつて鬱蒼としていた山道は整備され、日光が差し込むようになっていた。道中に立つ「この先危険、入るな」という看板を無視し、目的地へと進んだ。
温泉は昔と変わらず湧き続けていた。透明度はそこそこあり、湯温はかなり高い。入浴は無理だったので、足湯だけで済ますことにした。
岡田が語った話によると、この温泉は町の温泉ブームの最中に開発されかけたが、掘削作業中に大きな崩落事故が発生した。重機の音と共に地面が突如崩れ落ち、作業員たちは悲鳴を上げながら巻き込まれたという。崩落した坑道からは助けを求める声が響いたが、救助が追いつかず、多くの命が失われた。事故後も作業員たちは不可解な影や囁きを目撃し、異常な体調不良に見舞われる者が続出。営業開始後も入浴客が怪奇現象に悩まされ、ついには町が閉鎖を決定した。
・入浴中、湯の中から足を掴まれる。
・作業服姿の男と目が合うと失神する。
・突然湯温が上昇し、湯船から出られず大火傷を負う。
・髪を洗っていると、肩に冷たい手が触れる。
最終的に町が閉鎖を決定した。
だが、その場では何も起こらず、三人は「祟りも薄まったのだろう」と笑いながら山を後にした。しかし、風が吹くたびに木々のざわめきが異様に耳に残る気がした。遠ざかる温泉の湯気の中に、一瞬何かが揺らめいたように見えたが、誰もそれを口にすることはなかった。
——だが、それは大きな間違いだった。
その夜、吉野さんは自宅の風呂で異常を体験した。
浴室に入った瞬間、妙な違和感を覚えた。湯気の中で照明がわずかにちらつき、風呂場全体が不気味な静寂に包まれていた。シャワーの水音が異様に響く中、シャンプーの泡が異常なほど増え、瞬く間に風呂中を覆った。息が詰まり、目も開けられない。浴室のドアに手を伸ばすが動かない。その時、足首を冷たい手に掴まれ、風呂の底へと引きずり込まれそうになった。
必死で叫び、足をばたつかせたところで父親が駆けつけ、救出された。だが、父の目には大量の泡も、風呂の中の誰かも見えていなかったという。
恐怖に震えながら岡田と矢倉に連絡を取った。岡田は無事だったが、矢倉の妹が電話に出て「兄が風呂で転倒し、頭を強打して意識不明だ」と告げた。
急ぎ病院へ向かったが、矢倉はその夜、容態が急変し、帰らぬ人となった。
岡田と話し合い、これは間違いなく温泉の祟りだと結論づけた。矢倉は、足湯の際に「何者かに足を掴まれた」と妹に語っていたという。
町にはすぐに噂が広まり、吉野さんの両親も事態を知った。彼は両親に詰め寄られ、温泉に立ち入ったことを白状した。
すると、町の温泉連合の人々が集まり、厳しく叱責された。
「あの温泉の霊は年々力を増している。観光客が惹き寄せられるのもそのせいだ」
驚くべきことに、あの温泉の名は方言で「二度目」「再び」という意味を持ち、「二度目に訪れた者に祟りが降りかかる」と言い伝えられていた。
さらに、幼少期に三人をトラックで連れ戻した男について、母が不可解なことを口にした。
「あんな人、見たことがない」
その後、事故で亡くなった作業員の写真を見せてもらったところ、トラックの男に酷似した人物がいたという。
「警告してくれていたのに……」
吉野さん一家は町を離れる決断をした。岡田も移住を考えたが、家族の猛反対に遭い、残ることになった。
その後、岡田の様子は日に日に衰弱し、精神的に追い詰められていった。
やがて、就職活動に追われる吉野さんは岡田と疎遠になった。そして、ようやく再会を考え始めた矢先——岡田は自宅の風呂場で自殺した。
その場には、お祓いを受けたはずの桶があった。しかし、異様なことに、その桶は真っ二つに割れており、まるで何か強い力で叩き壊されたかのようだった。
吉野さんは、自分だけが生き残ったことを深く後悔している。
「桶のおかげか、不可解な現象はほとんど起きない。ただ、最近はあの温泉の霊よりも、岡田と矢倉の二人に祟られている気がする」
今もあの温泉は存在するのだろうか。
それは誰にも分からない——。
[出典:540 :温泉:2012/08/29(水) 18:36:54.01 ID:mEGWTIIw0]