五年前の秋口のことだ。
大学を辞めて地元に戻って間もない頃、短期バイトで入った老人ホームで、夜勤の休憩中に年上の職員から聞かされた話がある。
その人は、自衛官を目指していたある少年の家庭教師をしていたという。
今でも、あの話だけは妙に心の底に沈んでいる。たまに夢に見ることさえある。
最初は雑談のつもりだったんだ。深夜の仮眠室、薄暗い蛍光灯の下でコーヒーを啜っていたとき。
俺が「双子って気持ち悪いと思いません?」って軽口を叩いたのがきっかけだった。
その人は少し黙ってから、「……そうだね。どっちかが死ぬまでは」って言った。
意味を問う間もなく、語り始めた。
その兄弟は、一卵性の双子だったらしい。まるで鏡合わせのような容姿だったそうだ。けれど性格は真逆だった。
兄は本好きで引っ込み思案。弟は明るく、誰とでもすぐ仲良くなる。
俺もその話を聞いているとき、なんとなく自分と兄の関係を思い出していた。いや、俺に兄弟はいないけど、なぜか身に覚えがあるような感覚がしたんだ。
家庭は母子家庭で、裕福とは言えなかった。
兄は地元の情報処理系の専門学校に行き、弟は自衛隊の生徒課程に進んだ。給料が出るし、住み込みだから母の負担を減らせる――そう言って自ら志願したらしい。
成績は優秀。人格的にも申し分ない。上官からも目をかけられ、士官候補生の話も出ていたそうだ。
兄はその一方で、うまくいっていなかった。入学して半年ほどで、ふさぎ込みがちになり、家にも帰らず、やがて「もう死にたい」と母に漏らすようになった。
それでも、弟は時間を見つけては手紙を書いたり、電話をかけたりしていた。
「お前が死んだら、母さんも俺も死ぬしかないだろ」
「生きてるだけでいいからさ、焦るなよ」
けれど、ある日、兄は風呂場で首をくくった。
運よく発見は早かった。救急搬送され、命は助かった。でも、脳には深刻なダメージが残った。意識は戻ったが、言葉も動きも失い、意思疎通すら困難になった。
病院から、介護施設の紹介もあったが、母は拒否した。
「私が、私が面倒を見る……この子は、私の子だから」
その日から、弟は自衛隊を辞め、実家に戻った。
母とふたり、昼夜交代で兄の世話をする生活が始まった。
家の中は、暗かったという。窓を覆うカーテンは開け放たれたままなのに、どこか空気が湿っていた。
弟が働きに出る間は、母が兄の世話をし、夜は交代して弟が見守った。食事、排泄、体位交換。かつて自分と同じ顔で笑っていた存在は、まるで魂を失った肉人形のようだった。
……ここまでが、表に出た話だ。
俺が思わず、「その弟、なんで殺したんですか?」と訊くと、教師をしていたというその人は、紙コップのコーヒーをじっと見つめていた。
「……前からね、兄のほうは言ってたらしいよ」
死にたい。
でも、もし未遂で生き残ったら、そんなの地獄だから、そのときは殺してくれ。
冗談だと思っていた。でも、言葉は言霊って言うだろ。
耳に残った言葉は、ずっと弟の心に巣食っていた。
弟は決行した。
ある晩、母が出かけていた隙に、兄の首を絞めて殺した。叫び声もなかった。抵抗もなかった。殺した後、手首に抱きしめた痕が残っていたそうだ。
警察に自首し、すべてを語った。後悔はしていない。悲しくはあった。でも、後悔は、ない。
その言葉が、すべてを壊した。
裁判は異様だったらしい。
年齢的に少年審判で済むかと思われていたが、検察と裁判官が強硬だった。
弟が罪を悔いないこと。障害をもった兄を「生きていては可哀想」と言ったことが、他の障害者への侮辱に当たるとみなされた。
結局、彼は長い刑を言い渡された。暴行殺人より重い刑だった。
ここまで聞いて、俺は「じゃあ、その弟、今どこにいるんですか?」と訊いた。
その人は、少し微笑んで、こう言った。
「ううん。それがね、あれから行方がわからないんだ」
え? 刑務所じゃないんですか?
「判決後、移送されるはずだった。でも、途中でいなくなったって」
そんなバカな話が……。と、笑おうとした俺に、その人はスマホを見せてきた。
映っていたのは、ボロボロの服を着てホームレスのような姿をした若い男だった。
「これ、去年の冬に撮ったの。○○駅のガード下で。ほら、顔、見てごらんよ」
見た瞬間、息が止まった。
俺が、その施設で見た遺影と、まったく同じ顔だった。
入居者の遺族の一人として、兄の写真を、確かに見たことがある。
けれどその男は、まだ生きている。
道端に座り込み、空を見上げて笑っていた。口の端だけを歪ませて。
その人は写真を閉じながら言った。
「ほら、言ったでしょ。同じ顔って、死ぬまでは気持ち悪いけど――
死んだあとも、残るんだよ、もうひとつの顔は。魂は半分こだから」
それ以来、夜勤で休憩に入るたびに、鏡を見る癖がついた。
鏡の中の俺は、いつもより少し笑っている気がする。
誰の顔かは、もう、わからない。
[出典:875 :本当にあった怖い名無し 1/2:2005/11/18(金) 00:09:41 ID:U0JUNqxg0]