田舎の夕方って、だいたい同じ音しかしない。カエルの声と、遠くの国道、それからあいつの自転車のブレーキ音だ。毎日ほぼ同じ時間に、三軒隣の高校生が「ただいま帰りましたー」って笑いながら坂を上ってくる。その後ろの荷台は、いつも空っぽだった――あの日までは。
西日がアスファルトに長い影を焼き付ける時刻になると、今でも私の鼻腔には、あの田舎道特有の匂いが蘇る。
乾いた土埃と、用水路から立ち昇る泥の臭気、そして遠くの畑で焼かれる野草の煙たさ。それらが湿った空気の中で混ざり合い、一種独特の生活臭となって肺を満たすのだ。
当時、私が住んでいたのは関東平野の縁にある、新興住宅地と古い農家がまだら模様に混在する町だった。都心への通勤には一時間半を要し、最寄りの駅まではバスを使わなければならない。帰宅するのは決まって午後六時過ぎ。夏場ならばまだ空に明るさが残っているが、冬になれば頼りない街灯だけが等間隔に並ぶ、漆黒の帯のような道となる。
その道を、駅から自宅までの二十分ほど、私は毎日歩いて帰っていた。歩道の幅は狭く、ガードレールは錆びつき、車道を行き交うトラックが巻き上げる風が、疲れた身体にまとわりつく。そんな単調な帰路において、唯一の顔馴染みと呼べる存在がいた。
三軒隣の家に住む、高校生の少年である。
名前は確か、K君といったか。スポーツ刈りの頭に、いつも真っ白な運動靴を履いている、いかにも真面目そうな生徒だった。彼もまた、私が駅からの道を歩いていると、ちょうど部活を終えて自転車で帰ってくる時間帯と重なることが多かった。
彼の自転車は、古いシルバーのママチャリで、チェーンが油切れを起こしているのか、ペダルを漕ぐたびに「キィ、キィ」と甲高い金属音を鳴らしていた。その音が背後から近づいてくると、私は無意識に道の端へ寄る。彼は私の横を通り過ぎる際、必ず少しだけ速度を緩め、ペダルを漕ぐ足を止めて、「こんばんは」と短く、しかしはっきりとした声で挨拶をしてくれた。私も「おかえり、今日も遅いな」と声を返す。それが、私と彼との間に成立していた、ささやかで心地よい儀式のようなものだった。
彼の実家は、代々続く地元の農家で、広い敷地には母屋と離れがあり、庭には手入れの行き届いた松の木が植わっていた。三世代同居の賑やかな家で、特に彼のお祖母さんは、近所でも有名な働き者だった。腰の曲がった小柄な体で、いつも畑に出ては野菜の世話をしていた姿を覚えている。私が引っ越してきた当初、挨拶回りで訪れた際も、採れたての茄子を両手いっぱいに持たせてくれた、笑顔の柔らかな老婆だった。
K君はそのお祖母子で、幼い頃からよく離れでお祖母さんと過ごしていたという話を、近所の回覧板を回す井戸端会議で耳にしたことがあった。反抗期らしい反抗期もなく、穏やかに育った彼が、夕闇の中を自転車で走り去る背中は、どこか頼もしく、同時に守るべき何かを持っているような、独特の重心を感じさせたものだ。
季節が秋へと移ろい、道端のススキが枯れ色を帯び始めた頃のことだ。
いつものように駅から歩いていると、K君の家の前に黒と白の幕が張られているのが見えた。門の前には数台の車が停まり、喪服を着た人々が出入りしている。不祝儀の気配に、私は足を止めた。
亡くなったのは、あのお祖母さんだった。
享年八十二。老衰に近い、穏やかな最期だったと聞いた。
通夜は自宅で執り行われ、近所の住人として私も参列することになった。
通された座敷は、あふれんばかりの人いきれと、濃厚な線香の煙で白く霞んでいた。読経の声が低く響き渡り、畳の目がじっとりと湿気を帯びているように感じる。私は焼香の列に並びながら、祭壇の遺影を見上げた。
白髪を綺麗に結い上げ、藤色の着物を召したお祖母さんが、少し口元を引き結んでこちらを見据えている。生前の柔和な笑顔とは違い、どこか厳格で、何かを訴えかけるような強い眼差しだった。写真の角度のせいか、あるいは照明の具合か、その瞳はずっと私の動きを追っているような錯覚を覚えさせた。
列が進み、私の番が来た。抹香を指先で摘むと、乾いた感触と共に、一種独特の漢方薬のような香りが鼻孔を突く。炭の上に落とすと、じゅっと小さな音を立てて煙が昇った。手を合わせ、目を閉じる。
その時、ふと背筋に冷たい風が走った。
部屋の窓はすべて閉め切られているはずなのに、首筋の産毛が逆立つような、生温かくも不快な風。
顔を上げると、喪主の横に座るK君の姿が目に入った。制服姿の彼は、俯いて膝の上で拳を握りしめていたが、その肩が小刻みに震えている。悲しみというよりは、何かに耐えているような、重圧に押し潰されまいとするような姿勢に見えた。
私は逃げるように座敷を後にした。
外に出ると、夜風が冷たく、肺に溜まった線香の味を洗い流してくれるようだった。しかし、あの遺影の眼差しだけが、網膜に焼き付いて離れなかった。何か見てはいけないものの断片を、垣間見てしまったような不安。それが何を意味するのか、その時の私には知る由もなかった。
葬儀から一週間ほどが過ぎた、ある曇天の夕暮れだった。
空は重たい灰色に閉ざされ、湿度が高く、今にも雨が降り出しそうな気配が漂っていた。私は残業でいつもより少し遅い時間に駅に着き、急ぎ足で家路を急いでいた。
古い街灯が点滅を繰り返し、アスファルトの染みを生き物のように浮かび上がらせている。
背後から、聞き慣れた音がした。
キィ、キィ、キィ。
油の切れたチェーンが悲鳴を上げる、あのK君の自転車の音だ。
ああ、彼も今日は遅かったのか。そう思い、私はいつものように道の端へ寄り、挨拶の言葉を用意した。「こんばんは」か、「降られなくてよかったな」か。
音は徐々に近づいてくる。しかし、いつもとは何かが違っていた。
リズムだ。
普段なら、軽快とまでは言わずとも、一定のテンポで刻まれる金属音が、今日はひどく重々しく、不規則に歪んでいる。
キィ……ッ、キィ……ッ、ゴリッ、キィ……。
まるで、急な坂道を無理やり登っているかのような、苦しげな響き。ここは平坦な道のはずなのに。
私は何気なく振り返った。
視界の端、二十メートルほど後方に、自転車のライトの明かりが見える。光軸が左右に激しく揺れているのは、ハンドルを取られないよう必死にバランスを保っているからだろうか。
K君の姿が闇の中から浮かび上がる。彼は立ち漕ぎをしていた。平坦な舗装路で、顔を真っ赤にし、全身の体重をペダルに乗せて、ようやく車輪を回している。
「おーい、パンクか?」
私は声をかけようとした。
その瞬間、彼の自転車の「後ろ」に、黒い塊が見えた。
荷台だ。荷台に誰かが乗っている。
ああ、なるほど。誰か友達でも乗せているのか。それとも、彼女でもできたのか。
高校生らしい青春の一コマに、私は少し頬を緩めかけた。重いわけだ、二人乗りなんて無茶をして。そう呆れながら、目を凝らした。
街灯の明かりが、その「同乗者」を照らし出した。
制服のスカートではない。
ズボンでもない。
藤色の、着物だった。
思考が凍結する。
藤色の着物。小柄な体躯。白髪を結い上げた頭部。
その人物は、K君の腰に細い腕を回し、背中に顔を埋めるようにして密着していた。
遺影で見た、あのお祖母さんだった。
見間違いだ、と思った。
葬式から日が浅いせいで、私の脳が勝手に映像を作り出したのだ。そう自分に言い聞かせようとした。
しかし、自転車が近づくにつれて、ディテールは残酷なまでに鮮明になった。
着物の襟足から覗く首の皮膚は、蝋細工のように白く、一切の血の気が感じられない。回された腕の関節は、枯れ木のように節くれ立ち、K君の制服の生地に爪が食い込んでいるのがわかる。
そして何より、質量があった。
タイヤが潰れんばかりにへしゃげ、泥除けがタイヤに接触して「シャー」という摩擦音を立てている。K君の荒い息遣いと、大量の汗。それは幻覚などではなく、物理的な「重さ」を持った何かが、そこに存在している証拠だった。
自転車が私の横を通り過ぎる。
私は呼吸を止め、全身を硬直させて、必死に目を逸らそうとした。
だが、見てしまった。
K君の背中にへばりついた老婆が、通り過ぎざま、ゆっくりと首だけを回したのを。
ギギ、と骨が鳴るような音がして、その顔が私の方を向いた。
遺影と同じ、引き結ばれた口元。しかし目は、カッと見開かれ、白目の部分が濁った黄色に染まっていた。
彼女は私を見ていたのではない。私の背後にある闇を、あるいは私の存在そのものを、品定めするように睨みつけていた。
「……こんばんは」
K君の声がした。
掠れた、今にも途切れそうな、苦悶に満ちた声だった。
彼は気づいていないのか? それとも、気づいていて無視しているのか?
私は声が出なかった。ただ、奇妙に歪んだ笑顔のような表情を作って、小さく頷くことしかできなかった。
自転車は、鉛のような重さを引きずりながら、闇の奥へと消えていった。
後に残されたのは、油の焼けるような匂いと、微かな線香の香り、そして強烈な腐敗臭だった。生ゴミが夏の暑さで煮えたような、鼻の奥に粘りつく甘ったるい臭気が、私の周囲にいつまでも漂っていた。
その夜を境に、私の帰宅時間は恐怖の刻(とき)へと変貌した。
K君との遭遇は、一回きりの偶然では終わらなかった。
二日に一度、あるいは三日に一度の頻度で、彼は必ず「それ」を背負って現れた。
雨の日は特に酷かった。
傘を差すこともできず、ずぶ濡れになりながらペダルを漕ぐ彼の背中で、老婆もまた濡れそぼっていた。着物が水を吸ってどす黒く変色し、乱れた白髪が顔に張り付いている。雨粒が老婆の頬を伝い、K君の背中へと滴り落ちていく様は、まるで老婆の体から溶け出した何かが、彼の中に浸透していくようだった。
冬になり、寒風が吹き荒れる夜には、老婆はK君の首にマフラーのように腕を巻き付けていた。
K君の顔色は、日を追うごとに悪くなっていった。
最初の頃に見せていた爽やかな笑顔は消え失せ、頬はこけ、目の下には隈が刻まれた。部活での疲れというレベルではない。生命力そのものを、根こそぎ吸い取られているような衰弱ぶりだった。
それでも彼は、私とすれ違うたびに、機械的に「こんばんは」と挨拶を寄越した。その声は日に日に小さく、乾いたものになっていったが、決して途絶えることはなかった。
私は彼に真実を告げるべきか、何度も自問自答した。
「君の自転車の後ろに、お祖母さんが乗っているよ」と。
しかし、言えなかった。もし彼がそれを知らずにいるなら、教えることで恐怖を認識させ、彼を壊してしまうかもしれない。逆に、もし彼が「知っていて」乗せているのだとしたら?
ある夜、すれ違いざまにK君の口元が微かに動いているのに気づいたことがある。
「……い、……い」
重い、重い、と呟いていたのか。それとも、痛い、と言っていたのか。
彼の瞳は焦点が合っておらず、ただ前方の虚空を見つめていた。その姿を見て、私は確信した。彼はもう、逃れられないところまで来ているのだと。これは単なる幽霊話ではない。血縁という名の、逃れようのない呪縛の儀式なのだと。
奇妙だったのは、老婆の様子だ。
最初のうちは無表情にしがみついているだけだったが、時が経つにつれ、その行動に変化が現れた。
ある時は、K君の耳元に口を寄せ、何かを囁き続けているように見えた。
またある時は、私の姿を認めると、ニタリと唇を歪め、嘲るような笑みを浮かべた。
そして、二年目が過ぎようとする頃には、老婆の体は以前よりも一回り大きくなっているように見えた。対照的に痩せ細ったK君の背中を覆い尽くさんばかりに肥大化し、その重量感は、自転車のフレームを軋ませるほどになっていた。
私はただ、傍観者としてその異様な光景を見送り続けるしかなかった。
罪悪感と恐怖で胃が痛くなる毎日だった。引っ越しすら考えたが、経済的な事情がそれを許さなかった。私は目を伏せ、耳を塞ぎ、彼らが通り過ぎる数秒間だけ呼吸を止めることで、辛うじて正気を保っていた。
K君が高校を卒業する春が来た。
彼が東京の大学へ進学し、家を出るという噂を母から聞いた時、私は心底安堵した。
これで終わる。
彼があの家から、あの土地から離れれば、あの老婆も追っては行けないだろう。あるいは、彼が大人になることで、その結びつきが断ち切られるのかもしれない。
いずれにせよ、私の帰宅路におけるあの不気味なパレードは、終わりを告げるのだ。
三月終わりの、生暖かい強風が吹く夜だった。
私は久しぶりに軽い足取りで、駅から家へと向かっていた。
K君は昨日、引っ越したと聞いた。もうあの金属音に怯える必要はない。
道端の桜の蕾が膨らみ、春の匂いが満ちている。私は深く息を吸い込み、夜空を見上げた。
その時だ。
背後から、音が聞こえた。
キィ、キィ、キィ……。
心臓が跳ね上がった。
まさか。彼はもういないはずだ。
幻聴か? それとも、誰か別の人間が乗っているのか?
私は恐る恐る振り返った。
誰もいなかった。
街灯の下、無人の道路が続いているだけだ。
風の音だろう。ガードレールのきしみだろう。私はそう自分に言い聞かせ、足を速めた。
キィ……ッ、ゴリッ、キィ……。
音はついてくる。
いや、ついてくるのではない。
もっと近く。
私の、すぐ耳元で。
足が止まった。
全身の血液が逆流するような感覚。
肩が、重い。
これまで感じたことのない、鉛の塊を埋め込まれたような圧迫感が、両肩にのしかかっている。
私はゆっくりと、自分の身体を見下ろした。
スーツの肩口が、何かに押さえつけられるように窪んでいる。
そして、鼻をつく匂い。
あの、線香と腐敗臭が混ざった、あの匂い。
理解したくなかった。
K君はお祖母さんに憑かれていたのではなかった。
お祖母さんは、K君に執着していたわけでもなかった。
彼女はこの「道」にいたのだ。
駅から家へと続く、この薄暗く寂しい一本道。そこを通る者を、選別していたのだ。
そしてK君という若く強靭な足がなくなった今、彼女は次の「乗り物」を必要とした。
毎日同じ時間に、同じ道を通り、あまつさえ自分の姿を「認識」してくれた人間を。
「……こんばんは」
耳元で、老婆のしゃがれた声がした。
K君の声ではない。紛れもない、老婆の声だ。
その瞬間、私の視界がぐらりと揺れた。
足が勝手に前へと進む。私の意思ではない。背中の重みが、私を前へと押し出しているのだ。
一歩、また一歩。
靴底がアスファルトを擦る音が、あの自転車の軋みと重なる。
私は歩き出した。
いや、運ばされ始めた。
自宅までの道のりは、まだ遠い。
これから毎日、何年も、何十年も。
私はこの重みを背負い、誰かに「こんばんは」と挨拶を繰り返しながら、この道を歩き続けるのだろうか。
K君がそうであったように、次第に痩せ細り、生気を失いながら。
ふと、道路脇のカーブミラーに自分の姿が映った。
街灯の逆光の中、スーツ姿の男が一人、猫背になって歩いている。
しかし、鏡の中の私の顔は、あの遺影のお祖母さんと、全く同じ目をして笑っていた。
(了)
[出典:47 :以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします:2019/06/20(木) 23:36:43.462ID:9rcYLnzp0]