子供の頃のことを、思い出す。
ある朝、寝ぼけ眼で布団から身を起こしたら、掛け布の上に、銀色の魚が横たわっていた。体長は四〇センチか、いや、七〇センチ近くあったかもしれない。太くてずっしりと重たげな、あの特有の匂いを放つ魚――ボラだった。
まだ小学生の頃で、一人っ子だった俺の部屋に、そんな悪戯を仕掛ける奴がいるはずがなかった。窓は施錠してあったし、家族の足音もない。なのに、そこには生きたボラが、はねもしないで冷たく鎮座していた。
唖然として声も出なかった俺の横で、祖父がやって来て、その魚を無言で抱えあげた。表情は妙に曇っていた。楽しそうでも怒っているわけでもなく、ただ「またか」とでも言いたげな、うんざりした顔。祖父はそのまま縁側から庭へ降り、バケツに魚を投げ込むと、川へ運び去った。
「なにこれ」
震える声で問いかけても、祖父は一度も振り返らなかった。
それ以来、ボラという魚は俺にとって「気味の悪いもの」として、心の奥底に沈殿していった。
……年月が経ち、俺は大人になった。
新宿のビル街を歩いていたときのことだ。都庁前の大通り。高層ビルの谷間を、吹き抜ける風が妙に湿っていた。人の流れに身を任せて歩いていると、唐突に空から影が落ちてきた。
ドンッという重たい音。地面に叩きつけられて跳ねる銀の鱗。
――ボラだった。
アスファルトの上で必死に跳ねている。生臭い匂いが辺りに散ったのに、周囲の誰一人として驚いた様子を見せない。皆、ちらと目をやるだけで、そのまま素知らぬ顔で通り過ぎていった。
「トラックの荷台からでも落ちたんだろ」
そんな無言の了解が漂っていた。
やがて、ボラは後続車にひかれ、体の半分を潰されてしまった。血と内臓がじわりと路面に広がり、それでもわずかに尾を振っていた。
そのとき、ひとりのサラリーマン風の男が足を止めた。黒いスーツにネクタイという、どこにでもいそうな中年。そいつはしゃがみこみ、潰れたボラを片手でひょいとつかみあげた。ぶら下げたまま、ゆっくりと歩き出し、雑踏の向こうへ消えていった。
誰も彼を止めなかった。誰も、見ようとしなかった。
……あれから何年か経ち、俺はオヤジと呼ばれる年齢になった。
ある晩、死んでしまいたいという衝動に駆られ、川の欄干にもたれて水面を眺めていた。流れは緩やかで、街の灯りをぼんやり映していた。
ふと視界の隅に、銀色の影が泳ぎ去った。体の半分が潰れて、腸がだらりとはみ出している。それでも悠然と進む姿。
あれは……あの日、新宿で潰れたボラだった。
ぞっとして目をそらすと、心の中の死にたい気持ちだけが、一層濃く沈殿していった。
……さらに歳月は過ぎ、俺はジジイと呼ばれる年になった。釣り竿を携え、岸壁に腰を下ろすのが習慣になっていた。
ある日、仕掛けに大物がかかった。竿が大きくしなり、リールを巻く指が痺れる。引き揚げると、そこに現れたのはまたしてもボラ。
海面からその姿を引き上げた瞬間、急激に血の気が引いた。目の前が白く霞み、意識が途切れた。
気づいたとき、俺は釣り座に横たわっていた。口の中に、冷たい塊の感触。歯の隙間から硬い鱗が当たる感触。
――ボラを、頭から丸かじりにしていた。
口の端から尾びれがはみ出し、血と粘液でぐちゃぐちゃになっていた。吐き出すと、魚はぐったりと動かず死んでいた。時間は五分か十分程度しか経っていなかっただろう。だが、もっと長く、永遠にも似た空白を体験していた気がする。
その日から、魚を食う気が完全に失せた。シラスならまだ平気だ。だが、煮干し以上の大きさの魚は喉を通らなくなった。目を閉じると、必ずあの丸かじりの感触がよみがえる。
……先日、西新宿の公園を歩いていた。秋の午後、落ち葉が足元にまとわりつく。そこで、奇妙な男とすれ違った。
手に持っていたのは、血まみれでボロボロになった巨大な魚。あれもまた、ボラだった。
顔を見上げると、男の服装は神社の神官に似ていた。白装束に袴。だがよれよれで、血のしみがあちこちに滲んでいた。無言で魚を引きずりながら、俺の横をすり抜けていった。
振り返ると、もう姿は消えていた。残っていたのは魚の生臭い匂いだけ。
――もう、魚はいらない。
世界から消えてしまえばいい。
それなのに今も、視界の端に銀色の鱗がちらついている。耳の奥で、かすかな跳ねる音が繰り返されている。
どこまでが記憶で、どこからが現実か、もうわからなくなっている。
[出典:433 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/06/12(月) 04:29:24.01 ID:aAfory4D0.net]