1990年代の話。当時の私は、いわゆる現役バリバリの鉄道マニアだった。
北海道の北東部、オホーツク海に面した網走から夜行列車に乗り、札幌へ向かう途中のことだ。
石北本線という路線がある。タコ部屋と呼ばれる強制労働従事者によって敷設された歴史を持ち、なかでも常呂と紋別を結ぶ常紋峠は、鉄道好きの間でも有名な難所だった。
昼間、その峠周辺で撮影をしたことがある。
山の中で、誰もいないはずなのに、ずっと見られているような感覚が消えなかった。
私は霊感と呼ばれるものを一切持たない人間だ。それでも、あの場所は二度と行きたくないと思った。
夜行列車は留辺蘂で短時間停車した後、峠へ向かってゆっくり高度を上げていった。
常紋峠に挑む直前、最後の駅である金華に差しかかったとき、列車が停車した。本来なら通過のはずだ。
しばらくして発車したが、気になって車掌に理由を聞いた。
走行中にブレーキ系統の警告表示が出たため、念のため停車して点検したという。
テストでは異常なしだったらしい。
だが、その車掌は終始こちらを見なかった。
何かを避けるように視線を外し、はっきりと怯えている様子だった。
この時点で、嫌な予感がした。
表情には出さず、静かに荷物をまとめ、自分の寝台に潜り込んだ。
その夜の乗客は、私を含めて三人だけだった。
怖さが込み上げ、隣の寝台から毛布を借り、二重に被って眠ろうとした。
列車は速度を落とし、長い編成がカーブに沿って左右に揺れながら進む。
エンジン音とジョイント音の間隔が、だんだんゆっくりになっていった。
峠の頂上が近いと感じた頃、列車は急激に減速した。
止まるのではないかと思うほどだったが、止まらない。
運転士が警笛を何度も鳴らしながら、再び加速を始めた。
その時は、エゾシカでも飛び出したのだろうと思った。
歩くような速度で坂を上りきり、列車は常紋トンネルへ突入した。
トンネルに入っても、警笛は鳴り続けていた。
おかしいと思い始めた直後、異変が起きた。
寝台車の中に、急に生臭い匂いが広がった。
汗とも鉄ともつかない、言葉にしづらい臭いだった。
そして音がした。
ガシャ、とも、グシャ、とも言えない。
割れた陶器を布袋に入れて、床に落としたような音が、通路を移動していく。
本能的に、見てはいけないと思った。
それでも、ほんの一瞬だけ、毛布から顔を出し、カーテンをわずかに開けて廊下を覗いてしまった。
廊下には、水が点々と落ちていた。
こぼれたのではない。足跡の形だった。
寝台からは廊下の隅までは見えない。
だが、天井近くに取り付けられた小さな鏡がある。
そこに、黒い陰が映っていた。
形ははっきりしない。
人とも、物とも言えない。
ただ、確実に「何か」が、廊下の奥へ滑るように進んでいくのが分かった。
その陰が消えかけた頃、列車はトンネルを抜けた。
その瞬間、陰が一瞬だけ動きを止めたように見えた。
振り返った、と感じただけかもしれない。
次の瞬間、陰は急激な速度で横に流れ、私の寝台の前を通り抜けて消えた。
その時、理由は分からないが、確かに視線を感じた。
見られた、という感覚だけが、強烈に残った。
体が動かなかった。
声も出なかった。
しばらくして、廊下から声がした。
「お客さん……見ましたか?」
大丈夫ですか、ではなかった。
見ましたか、だった。
車掌は淡々と廊下の水を拭き取っていた。
そのティッシュが、ほんのり赤く染まっているのを見た瞬間、言葉が出なくなった。
車掌は遠くを見るような目で言った。
「金華で臨停するときは、必ず出るんですよ」
それだけ言って、車掌室へ戻っていった。
その顔は、生きている人間の色ではなかった。
峠を越えた列車は速度を上げ、警笛もいつの間にか止んでいた。
心臓の音だけが、やけに大きく聞こえていた。
遠軽で停車したとき、喉の渇きに耐えられず、ホームの自販機で缶コーヒーを買った。
そこへ交代を終えた運転士が通りかかった。
「峠の上で、シカでもいたんですか」
そう聞くと、運転士は力なく笑った。
「……シカじゃないです」
それだけ言って、詰め所に入っていった。
常紋を嫌がる理由を、私はその夜、嫌というほど知った。
(了)
[出典:624 本当にあった怖い名無し sage 2006/06/04(日) 18:57:07 ID:4Tl6yMHd0]