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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

まだ会っていない恋人 nw+372-0315

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今でも、盆の夕暮れの匂いを思い出すと、胸の奥がざらつく。

線香の煙が、仏間の天井をゆっくり撫でていた。
俺とAは黙ったまま、黒い位牌の前に座っていた。
家そのものは何も変わっていないはずなのに、前に来たときには確かにあった笑い声の残りだけが、きれいに抜き取られていた。
静かすぎて、台所の冷蔵庫の唸りが、別の部屋で誰かが小さく息をしている音に聞こえた。

Bさんが湯呑を二つ置いて、俺たちの向かいに腰を下ろした。
やつれた顔だった。目だけが妙に乾いていた。

しばらく黙っていたが、やがて唇を湿らせて言った。

「変な話をするぞ」

俺たちは何も返さなかった。

「Cが死ぬ前、一回だけ目を開けたんだ。もう喋れないと思ってたのに、急にはっきりした顔をしてな。俺のこと見て、こう言った」

そこでBさんは一度、仏壇のほうを見た。

「《私、何回もやり直してる》って」

病院で聞いたときは、熱に浮かされた妄言だと思ったらしい。
けれどCさんは、寝言みたいな口調ではなかったという。
むしろ、前から決めていたことをようやく伝えられる人間の顔をしていた、と。

「何回目かは、はっきり言わなかった。最初はな。ただ、毎回お前に会うところまでは行ける。でも、その先が続かないって」

Bさんは膝の上で指を組み直した。

「一度は付き合えなかった。一度は結婚した。一度は子供ができた。一度は作らなかった。細かい順番はもう覚えてない。けど、どこまでやっても、最後は同じところで終わるって言うんだよ」

「同じところって」

Aが掠れた声で聞くと、Bさんは答えた。

「死ぬ歳だ」

それから、低く付け足した。

「寿命だけは変えられないって、笑ってた」

仏間の空気が、そこで一段冷えた気がした。

Bさんは湯呑に触れたが、飲まなかった。

「最後にな、あいつ、俺に言ったんだ。《また戻るから。今度は大学のときのあなたに会いに行く》って」

その直後に目を閉じて、そのままだったらしい。

Bさんは自分で笑おうとして、うまくいかなかった。

「信じなくていい。俺も、最初はそう思った。ただ……もし別の時間で元気にやってるなら、それでいいかなって」

その顔は泣くよりひどかった。

俺は頷いたが、何も言えなかった。
数日前に、気味の悪いことがあったからだ。

駅のホームで、人混みの向こうに見覚えのある後ろ姿を見た。
薄いベージュのカーディガンに、肩までの髪。
あ、と声が出そうになった。
その女が少しだけ首を傾けたとき、横顔が見えた。
Cさんだった。

ありえないと思った。入院してから、もうずっと痩せていたはずなのに、その横顔は学生みたいに若かった。

人の流れに遮られて、次に見たときには消えていた。

その夜、夢を見た。

大学の古い校舎の前に、ひとりで立っていた。
夕方で、構内は妙に静かだった。
ベンチの横に、制服姿の女がいた。
今どき見ない形の紺のブレザーで、俺のほうを見ていた。

顔はCさんだった。
けれど、会ったことのない年齢の顔だった。

彼女は笑いもしないで、ただ言った。

「今度は間に合うから」

そこで目が覚めた。
喉がひどく乾いていて、枕が汗で冷たかった。

それだけなら、疲れていたのだと思えた。

思えなくなったのは、そのあとだ。

盆が明けてしばらくしてから、Aの部屋で昔の段ボールを整理していた。
学生時代の写真や雑誌がまとめて突っ込んであって、その中に、俺たち四人で撮ったはずの写真が出てきた。

狭い台所で撮った一枚だ。
Aの下宿で、夜中に焼きそばを食ったあと、Bさんがカメラを持って、俺とAとCさんで並んだ。
そういう記憶だった。

だが、写真には四人写っていた。

俺とAの間に、知らない女がいた。
肩までの髪。薄い色のカーディガン。目立たない顔立ちなのに、見た瞬間に、心臓が縮んだ。

若いCさんだった。

いや、若いというのもおかしい。
その写真を撮った時点では、BさんとCさんはまだ出会っていない。
少なくとも、俺はずっとそう思っていた。

Aに見せると、あいつは顔色を変えた。

「……これ、前から四人だったか」

俺は答えられなかった。

写真の裏には日付が入っていた。
俺たちが二年だった夏。
その少しあとに、Bさんは大学を辞めて地元へ戻っている。
Cさんと知り合うのは、もっと先のはずだった。

その日から、記憶が少しずつ怪しくなった。

Bさんが昔、学食で誰かを待っていた気がする。
学祭の日、見知らぬ女が遠くからこっちを見ていた気がする。
Aの部屋の流しに、女物のヘアゴムが置いてあったような気がする。

前はなかった記憶が、あとから静かに増えていく。

しかも、それは思い出したという感じではない。
ずっと前からそこにあったものに、ようやく気づかされたような増え方をする。

いまでも大学の近くを通るたび、若い女の姿を目で追ってしまう。
探しているつもりはない。
もう、向こうが先にこっちを見つけている気がするだけだ。

ついこの前も、信号待ちの人混みの中に、ベージュのカーディガンが見えた。
振り向かなかった。
振り向けば、たぶん顔がわかると思ったからだ。

そのとき、背中のすぐ後ろで、女の声がした。

「今度は、ちゃんと会えたね」

振り向いたときには、誰もいなかった。

家に帰ってから、あの写真をもう一度見ようとした。
だが、段ボールのどこを探しても見つからない。

代わりに、Bさんから短い留守電が入っていた。

妙に明るい声だった。

「変なんだ。昔のアルバムを見てたら、大学のころの写真が何枚も出てきてさ。俺、あのころからCと会ってたみたいなんだよな」

そこで一度、言葉が切れた。

「いや、違うな。会ってたんじゃない。あいつ、今から会いに来るんだ」

留守電はそこで終わっていた。

あれからBさんとは連絡が取れていない。

線香の煙を見るたびに思う。
死んだ人間を思い出しているんじゃない。
まだ死んでいない誰かに、こっちの記憶を書き換えられているのかもしれない、と。

[出典:27 :本当にあった怖い名無し:2009/08/25(火) 05:16:22 ID:fyDmYmyC0]

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