今でも、盆の夕暮れの匂いを思い出すと、胸の奥がざらつく。
線香の煙が、仏間の天井をゆっくり撫でていた。
俺とAは黙ったまま、黒い位牌の前に座っていた。
家そのものは何も変わっていないはずなのに、前に来たときには確かにあった笑い声の残りだけが、きれいに抜き取られていた。
静かすぎて、台所の冷蔵庫の唸りが、別の部屋で誰かが小さく息をしている音に聞こえた。
Bさんが湯呑を二つ置いて、俺たちの向かいに腰を下ろした。
やつれた顔だった。目だけが妙に乾いていた。
しばらく黙っていたが、やがて唇を湿らせて言った。
「変な話をするぞ」
俺たちは何も返さなかった。
「Cが死ぬ前、一回だけ目を開けたんだ。もう喋れないと思ってたのに、急にはっきりした顔をしてな。俺のこと見て、こう言った」
そこでBさんは一度、仏壇のほうを見た。
「《私、何回もやり直してる》って」
病院で聞いたときは、熱に浮かされた妄言だと思ったらしい。
けれどCさんは、寝言みたいな口調ではなかったという。
むしろ、前から決めていたことをようやく伝えられる人間の顔をしていた、と。
「何回目かは、はっきり言わなかった。最初はな。ただ、毎回お前に会うところまでは行ける。でも、その先が続かないって」
Bさんは膝の上で指を組み直した。
「一度は付き合えなかった。一度は結婚した。一度は子供ができた。一度は作らなかった。細かい順番はもう覚えてない。けど、どこまでやっても、最後は同じところで終わるって言うんだよ」
「同じところって」
Aが掠れた声で聞くと、Bさんは答えた。
「死ぬ歳だ」
それから、低く付け足した。
「寿命だけは変えられないって、笑ってた」
仏間の空気が、そこで一段冷えた気がした。
Bさんは湯呑に触れたが、飲まなかった。
「最後にな、あいつ、俺に言ったんだ。《また戻るから。今度は大学のときのあなたに会いに行く》って」
その直後に目を閉じて、そのままだったらしい。
Bさんは自分で笑おうとして、うまくいかなかった。
「信じなくていい。俺も、最初はそう思った。ただ……もし別の時間で元気にやってるなら、それでいいかなって」
その顔は泣くよりひどかった。
俺は頷いたが、何も言えなかった。
数日前に、気味の悪いことがあったからだ。
駅のホームで、人混みの向こうに見覚えのある後ろ姿を見た。
薄いベージュのカーディガンに、肩までの髪。
あ、と声が出そうになった。
その女が少しだけ首を傾けたとき、横顔が見えた。
Cさんだった。
ありえないと思った。入院してから、もうずっと痩せていたはずなのに、その横顔は学生みたいに若かった。
人の流れに遮られて、次に見たときには消えていた。
その夜、夢を見た。
大学の古い校舎の前に、ひとりで立っていた。
夕方で、構内は妙に静かだった。
ベンチの横に、制服姿の女がいた。
今どき見ない形の紺のブレザーで、俺のほうを見ていた。
顔はCさんだった。
けれど、会ったことのない年齢の顔だった。
彼女は笑いもしないで、ただ言った。
「今度は間に合うから」
そこで目が覚めた。
喉がひどく乾いていて、枕が汗で冷たかった。
それだけなら、疲れていたのだと思えた。
思えなくなったのは、そのあとだ。
盆が明けてしばらくしてから、Aの部屋で昔の段ボールを整理していた。
学生時代の写真や雑誌がまとめて突っ込んであって、その中に、俺たち四人で撮ったはずの写真が出てきた。
狭い台所で撮った一枚だ。
Aの下宿で、夜中に焼きそばを食ったあと、Bさんがカメラを持って、俺とAとCさんで並んだ。
そういう記憶だった。
だが、写真には四人写っていた。
俺とAの間に、知らない女がいた。
肩までの髪。薄い色のカーディガン。目立たない顔立ちなのに、見た瞬間に、心臓が縮んだ。
若いCさんだった。
いや、若いというのもおかしい。
その写真を撮った時点では、BさんとCさんはまだ出会っていない。
少なくとも、俺はずっとそう思っていた。
Aに見せると、あいつは顔色を変えた。
「……これ、前から四人だったか」
俺は答えられなかった。
写真の裏には日付が入っていた。
俺たちが二年だった夏。
その少しあとに、Bさんは大学を辞めて地元へ戻っている。
Cさんと知り合うのは、もっと先のはずだった。
その日から、記憶が少しずつ怪しくなった。
Bさんが昔、学食で誰かを待っていた気がする。
学祭の日、見知らぬ女が遠くからこっちを見ていた気がする。
Aの部屋の流しに、女物のヘアゴムが置いてあったような気がする。
前はなかった記憶が、あとから静かに増えていく。
しかも、それは思い出したという感じではない。
ずっと前からそこにあったものに、ようやく気づかされたような増え方をする。
いまでも大学の近くを通るたび、若い女の姿を目で追ってしまう。
探しているつもりはない。
もう、向こうが先にこっちを見つけている気がするだけだ。
ついこの前も、信号待ちの人混みの中に、ベージュのカーディガンが見えた。
振り向かなかった。
振り向けば、たぶん顔がわかると思ったからだ。
そのとき、背中のすぐ後ろで、女の声がした。
「今度は、ちゃんと会えたね」
振り向いたときには、誰もいなかった。
家に帰ってから、あの写真をもう一度見ようとした。
だが、段ボールのどこを探しても見つからない。
代わりに、Bさんから短い留守電が入っていた。
妙に明るい声だった。
「変なんだ。昔のアルバムを見てたら、大学のころの写真が何枚も出てきてさ。俺、あのころからCと会ってたみたいなんだよな」
そこで一度、言葉が切れた。
「いや、違うな。会ってたんじゃない。あいつ、今から会いに来るんだ」
留守電はそこで終わっていた。
あれからBさんとは連絡が取れていない。
線香の煙を見るたびに思う。
死んだ人間を思い出しているんじゃない。
まだ死んでいない誰かに、こっちの記憶を書き換えられているのかもしれない、と。
[出典:27 :本当にあった怖い名無し:2009/08/25(火) 05:16:22 ID:fyDmYmyC0]