引っ越してきたのは、何年前だったか。
駅から徒歩五分、築二〇年のマンション。二LDKにしては家賃が安かった。付き合っていた彼女には小さな子どもがいて、三人で暮らすことを前提に選んだ部屋だった。
入居してから、妙に静かだった。隣の生活音が一切しない。ありがたいはずなのに、どこか音を吸い込まれているような、空気の底が抜けているような感覚があった。
半年ほど経ったある朝、掃除の最中に気づいた。リビングの壁の縁に、小さな丸い金具が埋まっている。引き戸の取っ手のようだった。白い壁紙が、そこだけわずかに浮いている。
入居時にはなかったはずだと思いながら、指先で横に押した。
音はしなかった。壁が抵抗なく滑り、暗い隙間が開く。そこに、もう一つの空間があった。
埃は薄い。だが荒れていない。窓から差す光が、整然と並ぶ家具を照らしている。中央に、三台のピアノが置かれていた。
黒光りするグランドピアノ。少し古いアップライト。もう一台、小ぶりなグランド。三角形に配置され、互いに向き合う形をしている。誰もいないのに、椅子はきちんと引かれたままだった。
奥へ進むと、ソファとテーブルのある部屋。そのさらに奥に、子ども部屋があった。
学習机が二つ。教科書とノートが揃えられ、体操服袋が棚にかかっている。机の上のカレンダーは三月で止まっていた。一九九一年と印刷されている。
ノートの表紙に、姉妹らしい二つの名前。どちらも見覚えがない。だが、片方の名前に、胸がわずかにざわついた。
彼女の子どもと、同じ読みだった。
玄関はなかった。風呂もトイレもない。ここだけでは生活できない造りだった。なのに、生活の途中で止まった気配だけが濃い。
ソファの下から雑誌を拾う。発行日は一九九一年。表紙の女性の髪型も、広告の電話番号も、どれも古い。
戻ろうとしたとき、背後で音がした。
単音だった。鍵盤をひとつ、強く叩いたような。
振り向いたとき、三台のうち一台の蓋が、わずかに開いているのが見えた。
壁を閉じたあとも、しばらく動けなかった。
彼女には話さなかった。ただ、なんとなく、その部屋のことを知られるべきではないと思った。翌週、彼女と子どもは引っ越しを取りやめた。理由は言えなかった。
数日後、もう一度だけ確かめようと壁を探した。
取っ手は、なかった。
同じ場所の壁紙を何度も押したが、固いままだった。
それから、夜中に目が覚めることが増えた。壁の向こうから、三つの音が重なる。
ゆっくりと、三和音。
今は別の家に住んでいる。だが、寝室の壁に、最近、小さな丸い凹みができているのに気づいた。
爪でなぞると、わずかに動く。
彼女とは結局別れた。あの子の名前を呼ぶたび、三月で止まった机を思い出すからだ。
壁の向こうに、まだ部屋があるのかは知らない。
ただ、三つ目の椅子が、いまも空いている気がしてならない。
[出典:160 :本当にあった怖い名無し:2020/06/04(木) 12:41:27.02 ID:j4eyaxuX0.net]