俺が二十歳を少し過ぎたころの話だ。
近所の小さな和食屋で、毎晩のように出前をしている青年がいた。俺より三つほど下で、高校へは行かず、十五か十六の頃から住み込みで働いていた。人当たりがよく、配達先でも評判だった。店の前で煙草を吸っていると、ある日向こうから声をかけてきた。それから、ときどき立ち話をするようになった。たいした会話ではない。ただ、妙にまっすぐな目をしたやつだった。
ある日、道端で会ったとき、いつもより明るい顔をしていた。
「俺、通信制の高校に入ったんだ」
少し照れながら笑ったあと、言った。
「でも英語がまるでダメでさ。にいちゃん、今度教えてくれる?」
俺は軽く引き受けた。具体的な約束は何も決めなかった。「今度時間あるときに」と言っただけだ。それが最後だった。
その後、彼を見かけなくなった。やがて噂が回ってきた。死んだらしい、と。
通行人が発見したとき、まだ息はあったという。搬送先の病院で、両親に一言だけ詫びて、それきりだった。事件にはならなかった。警察は自殺と判断した。理由は公表されなかった。
納得している顔は、誰の中にもなかった。
しばらくして、両親が俺を訪ねてきた。菓子折りを差し出し、礼を言いたいと頭を下げた。俺は戸惑った。なぜ俺を。
彼が実家に帰るたび、「にいちゃん」の話をしていたらしい。「英語が話せて、今度教えてくれる優しい人がいる」と。
俺は何もしていない。口約束だけだ。それでも彼は、俺のことを確かなものとして語っていた。
それが、妙に重かった。
両親は諦めなかった。町に何度も来て、話を聞いて回っていた。俺にも尋ねた。「何か気づいたことはないか」と。
あった。
だが、確証はなかった。
彼は、高額な商品をローンで買わされていたらしい。保証人は両親。出前の青年が、何着もの高級スーツを持っていた。着る場所などないはずなのに。そして、自己啓発セミナー。評判の悪い団体だった。奇妙なことに、彼と、俺のバイト先の店主には、同じ営業担当がついていた。
両親によれば、彼は頻繁に金をせびったが、理由は言わなかった。「友人」と名乗る連中が、夜中に彼を呼び出していた。未成年の顔で、深夜に出歩いていた。
事件の夜も、誰かに呼び出されていた。海岸近くの駐車場。冬の夜に、原付で。
そこで何があったのかは、誰も知らない。
後日、現場付近で若者同士が揉めていたという話が出たが、それがその夜かどうかも曖昧だった。セミナーの担当者は葬儀で泣き崩れ、「残ったローンは自分が払う」と言った。だが、すぐに姿を消した。数週間後、近所で別の会社に勤めているのを見たという話もある。
店も、移転した。
証言も、移転した。
数年が過ぎた頃、青年の話題が出たとき、周囲はあっさり言った。
「自殺だったよな」
「かわいそうだったな」
あれほど曖昧だった違和感は、きれいに整えられていた。角の取れた物語に変わっていた。誰も揉め事の噂を覚えていなかった。呼び出しのメモのことも、高級スーツのことも、口にしなくなっていた。
消えたのは、人間ではなかったのかもしれない。
疑問の方だった。
俺は今でも、あの一言を覚えている。
「にいちゃん、英語教えてくれる?」
あのとき具体的に日付を決めていたら、違っていたのか。連絡先を聞いていたら。様子がおかしいと踏み込んでいたら。
考えるたび、少しだけ記憶が削れる。自殺という言葉が、滑らかに上書きしてくる。
気づくと、俺自身が口にしている。
「あれは自殺だった」と。
だが、思い出す。海岸の夜。消えた営業マン。移転した店。曖昧な証言。あの目。
もし、あなたの町で、同じような話があったとして。
時間が経ち、「仕方なかった」と整えられたとして。
あなたは、どこまで覚えていられるだろうか。
そして、どこから先を、都合よく忘れるだろうか。
俺はまだ、約束を果たしていない。
だが最近、あの和食屋の前を通ると、ふと思うことがある。
本当に教えなかったのは、英語だけだったのか。
[出典:841 :820:05/02/28 19:34:27 ID:6C3+YQeJ0]