これは、同級生から聞いた話だ。
小さい頃の彼は、商店街の端にある花屋の前を通るたびに、決まって「パフェが食べたい」と泣いたらしい。
母親はそのたび困ったそうだ。店はどう見ても花屋だった。入口には切り花が並び、奥には仏花の束が吊られ、店の中は土と水と甘ったるい花の匂いで満ちていた。喫茶店らしいものは何もない。それでも彼は、母親の手を引いて店の中へ入ろうとした。
「二階で食べるの」
そう言って聞かなかったという。
花屋は古い造りで、店の奥に細い階段があった。一階は生花、二階は鉢植えや観葉植物を並べているだけだと、母親も知っていた。実際、何度連れて行っても二階にテーブルはなく、花鉢と棚しかなかったらしい。なのに彼は階段を上がる途中から笑い出し、上を指して、「ほら、空いてる」と言った。
もちろん、何もなかった。
母親が「ほら、ないでしょう」と言うと、彼は納得したように見えた。だが次の週になると、また同じ店の前で「今日はチョコのやつ」と言って泣いた。
その繰り返しが、しばらく続いた。
母親は最初、子供の思い込みだと思っていたらしい。けれど、ある日だけ少し様子が違った。
彼を抱き上げて店を出ようとしたとき、二階から食器の触れ合う音がしたという。店員は一階にしかいなかったし、上には客もいないはずだった。それなのに、甲高いスプーンの音が一度、二度、聞こえた。母親が足を止めると、彼は母親の首にしがみついたまま、耳元でこう囁いたそうだ。
「だからあるって言ったじゃん。今日は混んでるね」
そのとき母親は、急にこの店に長くいてはいけない気がして、そのまま彼を連れて帰ったという。
彼自身は、その頃のことを断片的にしか覚えていなかった。ただ、花の匂いのする階段と、まだ見てもいないはずのチョコパフェの形だけは、異様にはっきり頭に残っていたらしい。細長いグラスの縁にバニラアイスが乗っていて、脇に半分だけ刺さったウエハースがあって、銀色のスプーンが添えられている。その像だけは、写真みたいに崩れなかったという。
成長するにつれて、商店街は変わった。古い店は消え、通りは広げられ、駐車場とマンションが増えた。花屋のことも、彼は長く忘れていた。
思い出したのは、三十を過ぎて実家に戻ったときだった。
親の用事を済ませた帰り、昔の商店街の跡を歩いていて、ふとあの花屋のことが頭に浮かんだ。もうとっくになくなっているだろうと思っていたのに、不思議なことに店だけは残っていた。外壁は塗り直され、看板も新しくなっていたが、入口に花が並ぶ感じは昔のままだった。
懐かしさに引かれて、彼は中に入った。
自動ドアの先に、明るい吹き抜けがあった。昔の薄暗い店内はなくなっていて、床も壁もきれいに張り替えられていた。その奥に、新しい階段が見えた。彼は何気なく見上げ、それで足を止めた。
二階の手すりに、小さな看板が掛かっていた。
喫茶。
その二文字を見た瞬間、子供の頃の記憶がそのまま立ち上がってきたという。階段の角度も、上から落ちてくる匂いも、自分が次に何を頼むつもりだったかまで、最初から知っていたみたいに思い出した。
彼は階段を上がった。
そこには確かに、喫茶スペースがあった。窓際に四つほどテーブルが並び、観葉植物に囲まれた奥の席に年配の夫婦が座っていた。思ったより狭い店だったが、奇妙なくらい落ち着いたらしい。初めて来た場所という感じがしなかった。
メニューを開く前に、彼はチョコパフェを注文した。
店員は少し黙ってから、「はい」と答えたそうだ。
運ばれてきたパフェは、子供の頃から頭の中にあったものとまったく同じだった。細長いグラス。バニラアイス。半分だけ刺さったウエハース。銀色のスプーン。
彼はそこで、急に食欲を失ったという。
見たかったものがそのまま出てきたのに、嬉しさより先に、自分が何を思い出したのか分からなくなったからだ。子供の頃に想像していたものが現実と一致した、というだけではなかった。むしろ逆で、今ようやく現実になったのではなく、昔のほうが先にここへ来ていたのではないか、という感覚がしたらしい。
食べると、味も知っていた。
冷たさも、底に溜まったコーンフレークの食感も、少し溶けたアイスがチョコソースと混ざる感じも、全部知っていた。思い出しているのではなく、確認している感覚だったという。
それで彼は、ふと窓際のガラスに映った自分を見た。
向かいの席に、子供が座っていたそうだ。
泣いた後みたいな赤い目をした、小さな男の子だった。こちらを見もせず、運ばれてきたばかりの空の前をじっと見ていた。彼は反射的に振り向いたが、もちろん席には誰もいなかった。
もう一度ガラスを見ると、今度は子供の前にパフェが置かれていた。
その子は嬉しそうでもなく、ただじっとスプーンを持っていた。そして、グラスの縁に触れる直前で、ぴたりと手を止めた。まるで向かいに座っている誰かが食べるのを待っているみたいだったという。
彼はそこで初めて、自分がどの席に座っているのか気づいたらしい。
その席は、子供の頃にいつも指差していた場所だった。
母親に「ほら、あそこ空いてる」と言っていた、窓際の席だった。
急にたまらなくなって立ち上がり、会計を済ませて店を出た。店員は最後まで変な顔ひとつしなかった。ただ、レジ横に置いてあった古びたマッチ箱だけが気になったという。店名の下に、小さく《フルーツパーラー》と印字されていた。
花屋の名前ではなかった。
帰宅してから母親にその話をすると、母親はしばらく黙っていたそうだ。
それから、そんな店は昔なかったと言った。
「二階には鉢植えしかなかったし、あんたも毎回そう言われて怒ってたでしょ」
彼が喫茶店の看板を見たこと、パフェを食べたことを話しても、母親は「改装してあとから作ったんじゃないの」としか言わなかった。ただ、彼がマッチ箱を見せると、母親の顔色が変わったという。
それは今の店のものではなかった。
紙は黄ばんでいて、端が湿気で波打っていた。古い電話番号の表記で、商店街の区画整理前の住所が印字されていた。母親はそれを何度も裏返してから、低い声で言ったそうだ。
「これ、昔あんたが持って帰ってきたことある」
彼は覚えていなかった。
まだ幼稚園にも入っていない頃、店の前で大泣きした日の夜、ポケットからそれが出てきたという。母親は花屋でこんなものをもらうはずがないと思って捨てた。なのに翌週、また同じものがポケットから出てきた。気味が悪くなって、二度目は誰にも見せずに処分したらしい。
そこで彼は、自分が今持っているマッチ箱を見た。
擦る部分が、少しだけ黒くなっていた。
一本だけ使われていた。
その夜、彼はどうしても落ち着かず、寝る前に財布の中を確認した。レシートが入っていた。日付はその日のもので、商品名には確かに《チョコパフェ》と印字されていた。だが店名の欄が、なぜか空白だった。
空白の下に、手書きで数字が並んでいた。
三四一。
意味が分からず裏返すと、白い紙の裏に薄く文字が浮いていた。油でも染みたような滲み方で、こう読めたという。
《次はお母さんと》
彼はそれを見た瞬間、吐いたそうだ。
翌朝、母親に電話をかけたが出なかった。留守電にもならない。胸騒ぎがして実家へ向かうと、母親は何事もなく台所にいた。ほっとして事情を話そうとすると、母親が先に妙なことを言った。
「あんた、昨日どこ行ってたの」
花屋だよ、と答えると、母親は首を振った。
「違う。帰ってきてないでしょ」
聞けば、昨夜十一時過ぎに玄関のチャイムが鳴ったらしい。母親が出ると、彼が立っていた。けれど様子がおかしく、何も言わずに立っているだけだった。手には細長いグラスを載せるような丸いトレイを持っていて、その上には水滴だけがついていたという。
「寒いから入りなさいって言ったのに、あんた、変なこと言って帰ったのよ」
母親はそう言って、少し声を潜めた。
「あの席、まだ空いてるって」
彼はその時間、自宅のアパートにいた。レシートを見て吐いたあと、怖くなって電気をつけたまま朝まで起きていた。それは間違いないという。けれど母親は確かに彼を見たと言い張った。
その日から、彼は母親と二人でその花屋へ行こうとはしなかった。
いや、正確には、行けなかった。
二人で話をしていると、どちらかが必ず曖昧になるからだ。母親は「あそこはずっと花屋だった」と言う日と、「昔、上からスプーンの音がした」と言う日がある。彼もまた、「喫茶店は新しくできた」と思える日と、「昔から知っていた」としか思えない日がある。
ただ一つだけ変わらないことがある。
母親の家の食器棚の奥に、いつのまにかパフェ用の長いスプーンが一本入っていたことだ。
家にそんなものはなかった。
来客用のカトラリーにも混ざっていない、一本だけの銀のスプーンだった。柄の裏に、店名はなく、数字だけが小さく打ってあった。
三四一。
母親は見つけたその日に捨てたと言う。彼も、たしかにゴミ袋の中に入るのを見た。だが次に実家へ行くと、また同じ引き出しに戻っていた。二人ともそれ以上は触らないことにした。
彼はもうあの店には行っていない。
そう言っていた。
だが先月、酒の席でこの話をした帰り際、彼が財布を落とした。拾って渡そうとして中身が少し見えたとき、レシートが一枚、挟まっているのが見えた。
白地に細長い、喫茶店のものらしいレシートだった。
日付は読めなかったが、商品名のところだけははっきり見えた。
《チョコパフェ 2》
彼は独身だ。
少なくとも、俺はそう聞いている。
[出典:341 :ぱふぇ:2012/05/31(木) 17:56:18.42 ID:PhS5Igsq0]