湿り気を含んだ初夏の風が窓から入り、カーテンがわずかに揺れていた。
深夜に近く、部屋には時計の秒針の音だけが残っていた。
その女性――仮にAさんとする――の話し方に、誇張はなかった。
ただ、言葉の切れ目ごとに、呼吸がほんの一拍遅れる癖があったと、聞き手は言う。
Aさんは、地方銀行の窓口に勤めていた。
毎日、同じカウンター、同じ椅子、同じ角度の蛍光灯。
制服の襟元に残る洗剤の匂いと、紙幣の乾いた感触。
特別なことは何も起きない職場だった。
ある日の午後、ひとりの男性が窓口に立った。
番号札を持ち、少し困ったように眉を寄せていた。
その顔を見た瞬間、Aさんは思った。
「あ、この人と結婚する」
理由はなかった。
胸が高鳴ったわけでも、運命という言葉が浮かんだわけでもない。
ただ、そう分かったのだという。
取引は数分で終わり、男性は去った。
その後も業務は続き、夕方になり、日常は何事もなく閉じた。
数日後、職場宛に一通の手紙が届いた。
あの日の対応への礼と、交際の申し出が丁寧な文字で書かれていた。
Aさんは驚いたが、迷いはなかった。
交際は続いた。
喧嘩もすれ違いもあったが、十年、途切れることはなかった。
やがて籍を入れることが決まり、式の日取りも決まった。
新居探し、手続き、挨拶回り。
彼の親友が何かと手伝い、三人で動くことが増えた。
親友は口数の少ない男だった。
家具を運ぶときは黙って重い方を持ち、
書類の不備には先に気づく。
Aさんは、その存在を「空気のようだった」と言った。
忙しい日々の中で、未来は疑う余地のないものだと思っていた。
式の二週間前の朝、
彼は突然この世を去った。
詳しい原因は語られなかった。
救急車、白いシーツ、病院の廊下の冷たさ。
それらが、断片として残っているだけだという。
Aさんは、しばらく中身の抜けた人形のようだった。
泣くこともできず、時間の感覚もなかった。
それでも、「このまま壊れたら、彼に申し訳ない」という思いだけが残った。
必死で生きた、と彼女は言った。
理由はそれだけだった。
年月が流れ、法要を重ね、七回忌が近づいた。
線香の匂いにも、仏壇の暗さにも、ようやく慣れ始めた頃だった。
その日、Aさんは車を運転していた。
交差点で赤信号に捕まり、ブレーキを踏んだ。
そのとき、携帯電話が鳴った。
画面に表示された番号を見て、心臓が一度止まったように感じたという。
消せずに残していた、亡くなった彼の番号だった。
切ることも、出ることもできず、
着信音だけが車内に満ちた。
やがて、通話は切れた。
当然、何も残っていなかった。
その直後、目の前を一台の車が横切った。
彼の親友の車だった。
信号が変わるまでの数秒が、異様に長く感じられたらしい。
車の色、ナンバー、運転席の横顔。
すべてが、ゆっくりと流れていった。
後日、親友から連絡があった。
法要の打ち合わせだった。
電話口の声は、いつもと変わらなかった。
それから二人は、少しずつ距離を縮めた。
相談、用事、食事。
理由を挙げればいくらでもあったが、
説明できない流れもあった。
やがて、結婚した。
Aさんは今、親友だった男の妻として暮らしている。
居間では、彼がテレビを見ながら笑っている。
年相応に腹が出てきて、それを無意識に撫でる癖がある。
「たくさん笑って暮らしてる」
その言葉に、無理は感じられなかったと、聞き手は言う。
話が終わったあと、ひとつだけ尋ねた。
最初の
「あ、この人と結婚する」
という直感は、誰のことだったのか。
Aさんは、少し考えた。
そして、こう答えたという。
「たぶんね、間違ってなかったの」
それ以上の説明はなかった。
ただ、七回忌のあの日、携帯が鳴った瞬間のことを思い出したらしい。
もし、あの着信がなければ。
もし、目の前を横切る車を見なければ。
今の生活は、ここにはなかった。
彼は、去った。
けれど、終わらせなかった。
最初に結婚すると「思わせた」のが誰だったのか。
その答えは、もう確かめようがない。
ただひとつ確かなのは、
彼女の人生が最初から最後まで、
誰かの選択の中を歩いてきたように見える、
ということだけだった。
(了)