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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026

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湿り気を含んだ初夏の風が窓から入り、カーテンがわずかに揺れていた。

深夜に近く、部屋には時計の秒針の音だけが残っていた。

その女性――仮にAさんとする――の話し方に、誇張はなかった。
ただ、言葉の切れ目ごとに、呼吸がほんの一拍遅れる癖があったと、聞き手は言う。

Aさんは、地方銀行の窓口に勤めていた。
毎日、同じカウンター、同じ椅子、同じ角度の蛍光灯。
制服の襟元に残る洗剤の匂いと、紙幣の乾いた感触。
特別なことは何も起きない職場だった。

ある日の午後、ひとりの男性が窓口に立った。
番号札を持ち、少し困ったように眉を寄せていた。

その顔を見た瞬間、Aさんは思った。

「あ、この人と結婚する」

理由はなかった。
胸が高鳴ったわけでも、運命という言葉が浮かんだわけでもない。
ただ、そう分かったのだという。

取引は数分で終わり、男性は去った。
その後も業務は続き、夕方になり、日常は何事もなく閉じた。

数日後、職場宛に一通の手紙が届いた。
あの日の対応への礼と、交際の申し出が丁寧な文字で書かれていた。
Aさんは驚いたが、迷いはなかった。

交際は続いた。
喧嘩もすれ違いもあったが、十年、途切れることはなかった。

やがて籍を入れることが決まり、式の日取りも決まった。
新居探し、手続き、挨拶回り。
彼の親友が何かと手伝い、三人で動くことが増えた。

親友は口数の少ない男だった。
家具を運ぶときは黙って重い方を持ち、
書類の不備には先に気づく。
Aさんは、その存在を「空気のようだった」と言った。

忙しい日々の中で、未来は疑う余地のないものだと思っていた。

式の二週間前の朝、
彼は突然この世を去った。

詳しい原因は語られなかった。
救急車、白いシーツ、病院の廊下の冷たさ。
それらが、断片として残っているだけだという。

Aさんは、しばらく中身の抜けた人形のようだった。
泣くこともできず、時間の感覚もなかった。
それでも、「このまま壊れたら、彼に申し訳ない」という思いだけが残った。

必死で生きた、と彼女は言った。
理由はそれだけだった。

年月が流れ、法要を重ね、七回忌が近づいた。

線香の匂いにも、仏壇の暗さにも、ようやく慣れ始めた頃だった。

その日、Aさんは車を運転していた。
交差点で赤信号に捕まり、ブレーキを踏んだ。

そのとき、携帯電話が鳴った。

画面に表示された番号を見て、心臓が一度止まったように感じたという。
消せずに残していた、亡くなった彼の番号だった。

切ることも、出ることもできず、
着信音だけが車内に満ちた。
やがて、通話は切れた。

当然、何も残っていなかった。

その直後、目の前を一台の車が横切った。
彼の親友の車だった。

信号が変わるまでの数秒が、異様に長く感じられたらしい。
車の色、ナンバー、運転席の横顔。
すべてが、ゆっくりと流れていった。

後日、親友から連絡があった。
法要の打ち合わせだった。
電話口の声は、いつもと変わらなかった。

それから二人は、少しずつ距離を縮めた。
相談、用事、食事。
理由を挙げればいくらでもあったが、
説明できない流れもあった。

やがて、結婚した。

Aさんは今、親友だった男の妻として暮らしている。
居間では、彼がテレビを見ながら笑っている。
年相応に腹が出てきて、それを無意識に撫でる癖がある。

「たくさん笑って暮らしてる」

その言葉に、無理は感じられなかったと、聞き手は言う。

話が終わったあと、ひとつだけ尋ねた。

最初の
「あ、この人と結婚する」
という直感は、誰のことだったのか。

Aさんは、少し考えた。

そして、こう答えたという。

「たぶんね、間違ってなかったの」

それ以上の説明はなかった。
ただ、七回忌のあの日、携帯が鳴った瞬間のことを思い出したらしい。

もし、あの着信がなければ。
もし、目の前を横切る車を見なければ。
今の生活は、ここにはなかった。

彼は、去った。
けれど、終わらせなかった。

最初に結婚すると「思わせた」のが誰だったのか。
その答えは、もう確かめようがない。

ただひとつ確かなのは、
彼女の人生が最初から最後まで、
誰かの選択の中を歩いてきたように見える
ということだけだった。

(了)

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