奥の課の電話は、誰もいないはずの事務室で、いつまでも鳴り続けていた。
年末の追い込みで、彼は一人残業していた。規則で点けていいのは自席の電灯だけ。広い事務室の大半は闇に沈み、机の輪郭だけが黒い塊として浮かんでいる。二十三時を過ぎると商店街の音も消え、建物そのものが息を潜めているようだった。
その奥で、電話が鳴り始めた。
最初は無視した。どうせ間違いだと思った。しかし、コール音は途切れない。五分、十分。静寂に穴を穿つように鳴り続ける。
苛立ちに耐えきれず、受話器を取った。
「すいません! 今から見積書をお持ちしたいんですが!」
若い男の声が、やけに近い。
「もう誰もいません。明日にしてください」
断ると、相手は息を詰まらせた。
「今、駅に着いたところなんです。どうしても今日中に」
彼は切った。
それから十五分後、また鳴った。
「道に迷ってしまって……もう少しで着きます」
窓から下を覗いたが、人影はない。駅からここまでは一本道だ。
さらに電話。
「今、建物の前です。保安の方に話して、中に入れてもらえますか?」
嫌な汗が背中を伝う。保安室に内線を入れた。
「誰も来ていませんよ」
即答だった。
受話器を戻すと、すぐにまた鳴る。
「ありがとうございます。今、入れてもらいました。エレベーターで上がります」
彼は受話器を握ったまま、事務室の奥を見た。暗闇は静まり返っている。
通常、来客は受付の簡易電話から担当を呼ぶ。直接ここへは繋がらない。だが相手は、この奥の課の番号を知っている。
「今、受付におります」
声は穏やかだった。
その瞬間、受話器の向こうと、事務室の奥から、同時に着信音が鳴った。
耳元で鳴っているはずのコール音が、闇の中からも響く。受話器を耳から離しても、音は止まらない。
「今、四階に着きました」
男の声が、電話越しではなく、すぐ後ろから聞こえた。
振り向くと、闇の奥で自席のランプがひとつ、増えていた。
彼の机の向かい側。誰も座っていないはずの席に、明かりが点いている。
電話は鳴り続けている。
受話器は、まだ彼の耳に触れている。
「今、目の前にいます」
その声と同時に、彼の机の電話が鳴った。
手元の受話器からも、奥の席からも、同じコール音が重なっている。
保安室からの内線が光った。
表示には、四階事務所と出ている。
(了)