彼女と部屋でくつろいでいると、静寂を叩き割るように玄関のドアが鳴った。
ドンドンドン、というより、叩きつけられている音だった。蝶番ごと外れるのではないかと思うほどの衝撃が、壁を伝って胸に響く。
また隣の悪友の悪ふざけだろう。そう決めつけたまま、覗き穴も見ずにドアを開けた。その判断を、今でも後悔している。
廊下に立っていたのは、大柄な男だった。息を切らし、肩を上下させ、こちらを見ているのかどうかも分からない焦点の合わない目をしている。肌は汗で濡れ、腕や首筋に浮いた血管が異様に強調されて見えた。
男は何かを握っていた。金属が光ったのを見て、反射的に体が強張る。ナイフだった。
だが、男の目には怒りも威嚇もなかった。あったのは、逃げ場を失った生き物のそれに近い、切実な怯えだった。
「Help……」
かすれた声で、必死に何かを訴えてくる。言葉は途切れ途切れで、意味を成さない。ただ「助けてほしい」という一点だけが、異様なほどはっきりと伝わってきた。
背後で物音がして、彼女がリビングから顔を出した。状況を見て一瞬だけ目を見開き、すぐに男に英語で話しかけ始める。留学経験のある彼女は、落ち着いた口調を崩さなかった。
二人のやり取りを横目で見ながら、俺はただ立ち尽くしていた。玄関の外の空気だけが、部屋の中と微妙に質を違えているように感じられた。
「……何て言ってる」
彼女に小声で尋ねると、少し間を置いて答えが返ってきた。
男は仕事帰りだったという。一つ先の駅近くの店で働いていて、そこで知り合った女の部屋に行った。酒を飲み、少し話をして、女が奥へ消えたあと、しばらく一人で待っていた。
そこまでは、ありふれた話だ。
だが、部屋の奥から、妙な音がしたという。水の音でも、足音でもない。何かを、擦っているような音。気になって、風呂場の方を覗いた。
そこにいたのは、さっきまで話していた女ではなかった。
それが誰なのか、男には説明できないらしい。ただ「違う」と何度も繰り返していた。視線が合った瞬間、相手が笑ったのかどうかも分からない。ただ、その口元から何かが落ちて、床に広がったという。
次の瞬間、音がした。空気を切る音。男の肩をかすめ、壁に突き刺さったものがあった。
それ以上は覚えていないらしい。気がついたときには廊下を走っていて、明かりのついている部屋を見つけて、無我夢中で叩いた。それが、俺たちの部屋だった。
彼女が警察に連絡しようとすると、男は激しく首を振った。「ノー、ポリス」と、ほとんど悲鳴に近い声で。
肩を指さされて見てみると、確かに切り傷があった。新しい傷だった。血はまだ乾いていない。
嘘だと切り捨てるには、男はあまりにも追い詰められていた。
結局、俺たちはタクシーを呼んだ。男は「明るい場所」「人がいるところ」を何度も強調した。行き先は、朝まで営業している幹線道路沿いの店にした。
タクシーが走り去るまで、男は何度もこちらを振り返っていた。まるで、背後に何かが追いついてくるのを確かめるように。
それきり、男のことは知らない。
部屋に戻ると、さっきまでと同じはずの空間が、どこかよそよそしく感じられた。玄関のあたりに、微妙な静けさが残っている。
彼女がぽつりと言った。
「変なの。あの人、ずっと……この建物を見てた」
その言葉の意味を聞き返す前に、彼女は首を振った。
その夜、何度か目が覚めた。廊下の気配が、わずかに近づいた気がしたからだ。
翌朝、玄関の外を確認する勇気はなかった。
あの男が逃げ込んできた「女の部屋」が、このアパートのどこかにあるのか。それとも、もう一度、助けを求める相手を探しているのか。
分からない。
ただ、今でも夜中に玄関の前で立ち止まると、叩かれる前の沈黙を、妙に長く感じることがある。
(了)