実家の近くに精神病院がある。
幼稚園の頃、あの病院には絶対近づくなと親に言われていた。
高い塀、鬱蒼とした木々、常に閉ざされた門。昼間ですら不気味で、鉄格子の窓の話なんかを聞かされると、そこが現実に存在する建物とは思えなかった。
けれど二〇〇〇年を過ぎた頃から、病院は少しずつ改修され始めた。
建物は塗り直され、窓も新しくなり、不気味さは薄れた。認知症の高齢者なんかも受け入れているらしく、いわゆる“普通の病院”に近づいているようにも見えた。
あれは二〇〇一年の秋、深夜二時過ぎだった。
仕事の帰り道、小腹が空いて近くのコンビニに立ち寄ろうと外に出た。街灯は相変わらず薄暗く、風に揺れる木の影が歩道に模様のように這いずっていた。
ふと、前方から「キコッ……キコッ……」という音が近づいてくる。
見れば、車椅子に乗った老婆が病院の方向からゆっくりと、まるで水を吸った布のように青白い顔をして道路を進んでいる。
車椅子を押す者の姿はない。
しかも病院の敷地からは、優に五十メートル以上離れていたはずだ。
「え……一人で?なんで……?」
違和感を抱えたままコンビニの方へ歩くと、病院の門が開いていて、中では看護師らしき人影が数人、右往左往していた。病院の灯りもついている。
妙にざわざわしていたが、緊急搬送か何かかと思い、そのまま買い物を済ませた。三分もかからなかった。
店を出たとき、もう一度病院の方を振り返ってみた。
……真っ暗だった。門も閉ざされていて、さっきのざわめきは嘘のように消えていた。
あの短時間で、車椅子の老婆を回収し、門を閉じ、すべてを消し去ったというのか?
なんともいえない違和感だけを残し、家へ帰る道すがら耳に残ったのは、再び「キコッ……キコッ……」という、車椅子の音だった。
その晩、夜食を食べていると、家の前の道を何度も何度も、車椅子が通り過ぎる音が響いた。
不自然なほどに機械的なリズムで、往復するたびに金属の軋みが濁っていくようだった。
翌晩も同じ時刻に目が覚め、タバコを吸うついでに外へ出たが、道には誰もいなかった。
仕方なくコンビニに行くと、病院はしっかり閉まっていて、電気も消えていた。
車椅子の音は十日ほど続いた後、ぴたりと止んだ。
……あれから十年近く経った頃のことだった。
実家へ電話したのは、たしか一年半ぶりだったと思う。
父方の祖母が亡くなったという知らせを聞かされた。
認知症を患い、車椅子で病院に入院していたという。
亡くなったのは二〇一二年三月。俺があの車椅子に遭遇した年だった。
祖母が死んだことを、俺はその年の暮れまで知らなかった。
父とはずっと連絡を取っていなかったし、俺もケータイの番号を変えていた。
向こうは連絡がつかず、母方の実家に問い合わせたらしいが、母方の祖父が俺の番号を教えることを拒んだそうだ。
なぜなのか。
あの頃、俺は母方の実家に身を寄せていた。
親父の不祥事――会社の金を横領して逃げたことで、両親は離婚。祖母の看病のために引っ越した矢先だった。
父方の祖父母には小さい頃から可愛がられていた。
祖父は口数が少ないが、温厚そうな印象だった。
だが、俺が中学の頃のこと。
ある日、祖父母が外出するからと家を任され、ふと祖父の書斎に入った。
本棚に囲まれた静かな部屋。
机の向こう、壁の一角に紙が幾重にも貼られていて、まるで瘤のように盛り上がっていた。
気になって一枚、剥がしてみた。
……赤い文字で「呪」と書かれていた。
中心には、ある男の顔写真。
心臓の位置に釘が刺さり、首には紐が巻きつけられている。
そこにはドクロのキーホルダーがぶら下がっていた。
釘は紙を貫き、壁にまで刺さっていた。
貼られた紙の裏には「死」「怨」「呪殺祈願」など、見るに堪えない言葉の羅列。
その男の顔を、俺は知らなかった。
だが、きっと、祖父の破産に関わった誰かだろう。
祖父は連帯保証人として、すべてを失った。
家屋敷、財産、そして老後の平穏までも。
それでも、その家に住まわせてもらっていたのは、まだ祖母が生きていたからだという。
書斎から逃げるように出たとき、玄関から祖父母が帰ってきた。
祖父は、いつも通りの笑顔だった。
でも俺にはもう、それが仮面にしか見えなかった。
それ以来、祖父とはあまり目を合わせなくなった。
祖母に会いに行くときも、どこかで距離を取っていた。
そして今、俺は祖母の死を知らせてもらえなかった。
祖父が、俺に知らせなかった。
まるで、復讐でもするかのように。
車椅子の音が鳴りやんだ夜。
それが、祖母の最期だったのではないかと思ってしまう。
あの青白い老婆の顔は、よく思い出せない。
けれど、何かを伝えたがっていたような気がしてならない。
……俺に、知らせたかったのか。
……それとも、連れて行きたかったのか。
もう一度だけ、あの音を聞いた気がする。
つい最近、夢の中で。
薄暗い廊下を、どこまでも追いかけてくる「キコッ……キコッ……」という音が、耳の奥にいつまでも残っていた。
[出典:526 :本当にあった怖い名無し:2013/08/28(水) 22:10:56.29 ID:y9EiE3cc0]