脳科学における性差神話の否定
湿度計の針は六十八パーセントを示しているが、体感では飽和に近い。地下二階にある資料保管室の空気は、常に澱んでいる。埃とカビ、それに微量だが確実に存在するホルマリンの刺激臭。それらが混ざり合い、鼻腔の奥にへばりつくような独特の重さを醸成していた。
蛍光灯が一本、不規則に明滅を繰り返している。チカ、チカ、と瞬くたびに、スチール製の棚に並ぶ無数のファイルバインダーが、巨大な肋骨のように見えたり、あるいは押し黙った墓標の列に見えたりする。
私は古びた回転椅子の背もたれに体重を預け、軋む音を聞きながら、手元の報告書に視線を落としていた。時刻は午前三時を回っている。本来なら、建物の警備システムが作動し、すべての入室が禁じられている時間帯だ。だが、私のIDカードだけは、なぜかこの部屋へのアクセスを許されていた。いや、許されているというよりは、ここに縛り付けられていると言った方が正しいかもしれない。
手元にあるのは、数十年前に廃棄されるはずだった未分類の書類束だ。黄ばんだ紙の束は、湿気を吸ってふやけている。その最上部に置かれた一枚のレポート。タイトルには『性差認識における脳機能の再考と幻想』と記されていた。
私はその文章を目で追う。文字の列が、網膜を焼くように飛び込んでくる。
「男脳と女脳という言葉を一度は耳にしたことがあるだろう」
冒頭の一文を読んだ瞬間、こめかみの奥で鋭い痛みが走った。いつもの偏頭痛だ。この部屋に来てから、ずっとこの痛みに悩まされている。まるで脳の正中線に沿って、見えない楔を打ち込まれているような感覚。
私は痛みを堪え、読み進める。
「男は論理的、女は感情的……まるで性別によって脳の構造や機能が明確に分かれているかのような言説が広まっている」
活字は淡々と、しかし残酷なほど明快に事実を告げていた。
「これらの主張は、いわゆる脳科学や心理学の研究を根拠にしていると言われるが、驚くべきことに、この男脳・女脳という概念そのものが科学的根拠に乏しいとされている」
私は無意識のうちに、首筋を指先で掻いていた。爪が皮膚を擦る音が、静まり返った部屋にやけに大きく響く。
根拠に乏しい。嘘だ。そんなはずはない。
私の中にある「常識」が、その文章に対して猛烈な拒絶反応を示している。だが、それは私の理性による判断なのだろうか。それとも、もっと深い場所、脳の皺の奥底に刻まれた何かが、この情報を拒んでいるのだろうか。
レポートは続く。
「実際、最新の研究や調査では、この理論が意図的な誤解や偏見に基づいて作られた可能性が指摘されているのだ」
私の指先は止まらない。首筋の皮膚が熱を持ち、ひりひりとした痛みが広がる。それでも、目は文字を追うことをやめられない。
「例えば、二〇一五年に発表されたテルアビブ大学の研究では、一四〇〇人以上の脳をMRIスキャンした結果、脳は性別ごとに明確に分類できる構造を持たないという事実が明らかになった」
一四〇〇人の脳。その数字を見たとき、不意に視界が歪んだ。
棚に並ぶファイルたちが、一斉にガタガタと震えたような錯覚に襲われる。
違う。揺れているのは私の眼球だ。眼球が、微細な痙攣を起こしている。
「つまり、男性と女性の脳を分ける特徴的な構造や機能の違いは、実は存在しないのだ」
存在しない。存在しない。存在しない。
その言葉が、頭の中でエコーのように反響する。
「研究者たちはむしろ、脳はモザイクのように多様であり、いわゆる男性的、女性的な特徴は、すべての人に混在していると結論づけている」
モザイク。
その単語を目にした瞬間、喉の奥から酸っぱいものが込み上げてきた。胃液の味ではない。もっと古い、錆びた鉄のような味だ。
私は口元を押さえ、激しく咳き込んだ。
モザイク。その言葉は、私の記憶の蓋を無理やりこじ開けようとしている。
この地下資料室の冷たい空気の中で、私は自分の体がバラバラの破片でできているような、奇妙な浮遊感を覚えた。
私の脳は、本当に「私」のものなのだろうか。
それとも、無数の他人の断片が、無理やり継ぎ合わされているだけなのだろうか。
レポートの続きが、まるで私を嘲笑うかのように語りかけてくる。
「では、なぜ男脳、女脳という概念がこんなにも信じられてきたのだろうか?」
その問いかけに対し、私は声に出して答えようとした。だが、唇が動くだけで音にならない。
「これは、実験結果を恣意的に解釈したり、都合のいい部分だけを取り上げることで、性別に基づく偏見を正当化しようとする動きが背景にあると考えられている」
偏見。正当化。
その言葉の裏側に、粘着質な「意図」を感じる。誰かの、強い意志。
かつてこの研究所に君臨していた、ある教授の顔が脳裏をよぎる。名前は思い出せない。だが、その白衣の白さと、常に漂わせていた甘い仁丹の匂いだけは鮮明に覚えている。
彼は言っていた。「科学とは、事実を発見することではない。事実を作り出すことだ」と。
「例えば、古い研究でよく引用されるのは、空間認識能力を測る実験や、言語タスクを使った調査だが、これらの研究には多くの問題点がある」
レポートは容赦なく過去を断罪していく。
「参加者の人数が少なかったり、文化的背景や教育の影響を無視していたりするため、性別差の根拠としては信憑性が低い」
信憑性が低い。そうだ、それはわかっている。
だが、もしも。
もしも、その「信憑性の低い理論」を、無理やり真実にしようとした人間がいたら?
文化的背景や教育の影響ではなく、外科的な介入によって、その「差」を物理的に刻み込もうとしたとしたら?
私は震える手でページをめくった。
紙の端が指に食い込み、微かな痛みが走る。
「さらに興味深いのは、心理学者たちが実験の結論を導き出す際、性差という先入観に縛られた場合、データがそうでないと示していても、意図的に違いを発見しようとする傾向があったという話だ」
発見しようとする傾向。
それは、捏造という生易しい言葉では片付けられない執念だ。
「言い換えれば、男脳・女脳という神話は科学的発見ではなく、私たちの社会が持つ性別役割の固定観念を強化するための道具として作り出されたのだ」
道具。
私は自分が座っているこの椅子も、目の前の机も、そして私自身も、すべてが何かの「道具」であるような錯覚に陥った。
ふと、机の隅に置かれた小さな鏡に目が留まる。
そこに映っているのは、疲労に滲んだ三十代の男の顔だ。無精髭が伸び、目の下には深い隈がある。
私は自分の顔を見つめる。
どこにでもいる、平凡な男の顔。
だが、その瞳の奥には、自分でも理解できない「何か」が潜んでいるように見えた。
私は男だ。少なくとも、戸籍上は。身体的特徴もそうだ。
しかし、このレポートを読んでいると、自分の中にある「男」という定義が、急速に輪郭を失って溶け出していく感覚に襲われる。
「こうした嘘による影響は、教育や職場環境、人間関係にまで広がっている」
嘘。
世界は嘘でできている。
「男だから理系が得意、女だから感情的で話し合いが得意など、性別による無意識のレッテル貼りが、子どもたちの選択肢や可能性を狭めている現状を見過ごすわけにはいかない」
私は子供の頃、パズルが好きだっただろうか。それとも、おままごとが好きだっただろうか。
思い出せない。
記憶のその部分だけが、まるで焼け焦げたフィルムのように欠落している。
いや、違う。欠落しているのではない。
そこには、別の誰かの記憶が、不自然な形で継ぎ足されているような違和感がある。
「それでは、どうすればこの神話から解放されるのか?」
解放。
その言葉が、今の私には救いではなく、死刑宣告のように響いた。
この神話から解放されたとき、私という存在は何になるのだろうか。
「答えは単純ではないが、まず私たちは男脳・女脳という言葉を疑い、より広い視点で個性と向き合う必要がある」
個性に、向き合う。
私は自分の首筋に残る痛痒さを、もう一度強く爪で押し潰した。
皮膚の下で、何かが脈打っている。血管ではない。もっと硬く、冷たい何かが。
蛍光灯の明滅が激しくなってきた。
ジジ、ジジジ、という電流のノイズが、耳鳴りと同期して頭蓋骨を内側から引っ掻く。
私はレポートの続きに視線を戻す。文字の輪郭が滲み、まるで生きた蟲のように紙の上を蠢いているように見えた。
「例えば、同じ空間認識能力を測るテストでも、結果には訓練や経験、興味が大きく影響することが分かっている」
訓練。経験。
その単語が、閉ざされていた記憶の扉を乱暴に叩く。
白い部屋。窓のない、無機質な空間。
目の前には積み木や立体パズルが山のように積まれている。
『これを完成させなさい。男の子ならできるはずだ』
誰かの声が聞こえる。優しげだが、拒絶を許さない絶対的な響きを持った声。
私は泣きながらパズルを組んでいる。指先が震え、ピースがうまく噛み合わない。
『できないのか? なら、修正が必要だな』
修正。
その言葉と共に、鋭い金属音が響き、視界が白濁する。
私は激しく頭を振り、フラッシュバックを振り払った。
冷や汗が顎を伝って書類に落ちる。黒い染みがじわりと広がり、「訓練」という文字をあやふやに溶かしていった。
現実の私は、地下資料室の椅子にしがみついている。
だが、あの白い部屋の冷気は、今も肌に残っていた。
「ある男の子が得意だったとしても、それは彼が普段からパズルやゲームを楽しんでいるからかもしれない」
文章は続く。正論だ。あまりにも真っ当で、反論の余地がない。
しかし、私の脳裏には別の「解釈」が焼き付いている。
楽しんでいるからではない。
強要されたからだ。あるいは、そうなるように「調整」されたからだ。
「逆に、女の子が苦手だったとしても、それは性別のせいではなく、その能力を育む機会が少なかっただけかもしれないのだ」
機会の欠如。
ふと、資料の束の下から、一枚の写真が滑り落ちた。
古びたモノクロ写真だ。縁が黄ばみ、カビの斑点が浮いている。
私は震える指でそれを拾い上げた。
写っているのは、解剖台の上に置かれた二つの脳髄だった。
いや、よく見るとそれは「二つ」ではない。
切断面が荒々しく、複数の部位をパッチワークのように縫い合わせた、歪な肉塊が写っていた。
写真の裏には、走り書きでこう記されている。
『検体番号・四九 雄性脳への雌性海馬移植実験 拒絶反応あり』
喉が鳴った。
ごくり、と飲み込んだ唾液が、鉛のように胃底へ落ちる。
検体番号、四九。
私の視線は、無意識に自分のIDカードへと向かう。
社員番号の末尾は、四九。
偶然だ。ただの偶然に過ぎない。
私は自分にそう言い聞かせるが、指先の震えは止まらない。
レポートの言葉が、呪詛のように追い打ちをかける。
「心理学や脳科学を否定するわけではないが、この分野には人を分類したがる危うさが常に付きまとっている」
人を分類する。
AとBに分ける。男と女に分ける。
分けられないものはどうする?
混ぜるのか。切り刻んで、規格に合うように作り変えるのか。
「一見、科学的に見える理論が、実は偏見や都合の良い解釈に基づいていることを忘れてはいけない」
都合の良い解釈。
不意に、部屋の空気が変わった気がした。
カビと埃の匂いに混じって、あの甘ったるい仁丹の香りが漂い始めたのだ。
まさか。
私は勢いよく振り返った。
背後には、スチール棚が整然と並んでいるだけだ。誰もいない。
だが、匂いは濃くなっている。
まるで、私のすぐ後ろ、耳元に誰かが立って呼吸をしているかのような濃度。
『男脳、女脳は本当に存在するのか?』
レポートの問いかけが、今度は頭の中ではなく、物理的な声となって鼓膜を震わせた気がした。
幻聴だ。極度の緊張と疲労が見せる幻覚に過ぎない。
しかし、首筋の違和感は、もはや痛みへと変わっていた。
熱を持った腫れ物のような感覚。
私は意を決して、ワイシャツの襟を緩め、首の後ろに手を伸ばした。
指先が触れる。
ざらりとした感触。
それは皮膚ではない。
硬質で、冷たい、人工的な縫合糸の感触だった。
背筋が凍りつく。
鏡。鏡が必要だ。
私は机上の小さな鏡を掴み、背後の壁に向けて角度を調整した。
合わせ鏡の要領で、自分の首筋を映し出す。
蛍光灯の頼りない光の中に、それは浮かび上がった。
髪の生え際に沿って、一直線に走る赤黒いケロイド。
そして、その傷跡を跨ぐように、無数の黒い糸が、皮膚を縫い縮めていた。
まるで、頭蓋骨を一度切り開き、中身を弄り回した後で、無造作に蓋をしたかのような痕跡。
「それとも、ただの思い込みでしかないのか?」
レポートの文字が、視界の端で踊る。
思い込みではない。
これは現実だ。
私の脳は、私の生まれ持ったものではない。
誰かの「男脳」信仰によって、あるいは「性差」を証明するための狂気によって、継ぎ接ぎされたモザイクなのだ。
『一度、その根拠を冷静に問い直してみるべきだろう』
問い直す? 何を?
私という存在の定義をか。
それとも、この頭蓋骨の中に詰まっている肉塊の出自をか。
「結局のところ、人間の脳は性別で測れるほど単純なものではない」
その一文が、皮肉な真実として突き刺さる。
ああ、確かに単純ではない。
私の脳の中には、何人の「男」と、何人の「女」が埋め込まれているのだろう。
論理的な思考をする部分、感情的な反応をする部分、空間を認識する部分。
それらが別々の人間から切り取られ、私の頭の中で強引に接続されているとしたら。
私の思考は、誰のものだ?
今感じているこの恐怖さえも、移植された誰かの感情野が反応しているだけなのではないか?
ズキン、と脳味噌が脈打つ。
仁丹の匂いが、鼻孔を塞ぐほどに充満した。
「……素晴らしい適合率だ」
低い、しわがれた声が聞こえた。
空耳ではない。
資料棚の影、光が届かない暗闇の奥に、白衣の裾が見えた。
ゆっくりと、革靴が床を擦る音が近づいてくる。
逃げなければ。
本能が警鐘を鳴らすが、体は金縛りにあったように動かない。
レポートの最後の段落が、目に入った。
「それを理解したとき、私たちはもっと自由に、そして本当の意味での多様性を受け入れられるのではないだろうか」
多様性。
その言葉が、これほどおぞましく響いたことはない。
一人の人間の中に、物理的に複数の脳を混在させること。
それが、あの教授の求めた「究極の多様性」だったとしたら。
足音が止まる。
私のすぐ背後で。
首筋の縫合痕が、熱を帯びて蠢き出した。
まるで、中に閉じ込められた何かが、外に出ようとして内側から叩いているかのように。
背後に立つ人物の息遣いは聞こえない。
ただ、仁丹の強い甘い匂いと、微かに古い手術室のような鉄の匂いが混ざり合い、私の体を硬直させていた。
鏡に映る首筋の縫合痕は、今や皮膚の下から青白い光を放っているように見えた。脈打つたびに、糸が張る感覚がする。
逃げようとして、私は回転椅子を無理やり回した。キー、という甲高い金属音が、地下の静寂を引き裂く。
視界に入ったのは、白衣を着た老年の男。痩せ細り、背は丸まっている。だが、その眼光は鋭く、底知れぬ狂気を宿していた。
「逃げる必要はない」
教授はそう言った。声は予想以上に静かで、地下室の冷気によく馴染んでいた。
「君は、私の最高傑作なのだから」
私は声が出ない。震える唇が、空気だけを漏らす。
「最高傑作?」
教授はゆっくりと一歩近づいた。その足取りには、年齢を感じさせない確かな意志がある。
「あのレポートを読んだのだろう。性差の神話、モザイク脳。美しい論文だ。だが、あれはあくまで『理論』だ」
教授は棚から、錆びついた金属製の小箱を取り出した。
「私が必要としたのは、理論を裏付ける『証拠』だ。完全に男性的特性を持つ脳の一部と、完全に女性的特性を持つ脳の一部を、一つの頭蓋内で機能させること」
教授は私に小箱の中を見せる。中には、古い受話器が一つ入っていた。黒く、プラスチックの筐体は脂で光っている。
「これはね、君が幼少期に使っていた訓練用の装置だ。空間認識タスクを達成したときにのみ、微弱な電気信号で脳内の特定部位に快感を与える。男の子の能力を強化するためにね」
受話器。古い、黒い受話器。
パチン、と乾いた音がして、私の記憶の焼け焦げた部分が、一瞬だけ修復された。
私は泣きながら、その受話器を耳に押し当てていた。パズルが解けないとき、誰かに怒鳴られる代わりに、受話器がジリジリと耳元で鳴り、私の頭の中が冷たく麻痺する。
教授は顔に、歪んだ満足の笑みを浮かべた。
「君のケースは特別だった。生まれ持った脳は、驚くほどバランスが取れていた。つまり、性差の神話から最も遠い存在だったのだ」
「だから……」
私はようやく絞り出した。
「だから、切り刻んで、私を『男』に作り変えようとしたのか?」
「違う」
教授は首を横に振った。その動作は、まるで手品師が種明かしをするかのように、大げさで確信に満ちていた。
「作り変えたのではない。補強したのだ。君の持つ極めて言語的な傾向、情緒的な処理能力を抑制し、徹底的に空間認識と論理的推論に特化した、他者の断片を移植した」
教授は自分の頭を指差した。
「君の頭の中には、三人の男の脳の一部と、二人の女の脳の一部が、モザイク状に縫合されている。それは、私の人生をかけたアートだ。既存の科学への、壮大な皮肉だよ」
私は立ち上がった。回転椅子が後ろに倒れ、ガシャン、と大きな音を立てる。
全身が震え、恐怖よりも、耐え難いほどの屈辱と怒りが込み上げてきた。
私の個性は、すべて誰かの意図的な配置だったのか。
「君の現在の『私』という意識は、五つの断片を強引に縫合した結果生まれた、過渡的な『縫い目』に過ぎない。しかし、その縫い目が、この数年で驚くべき安定を示している」
教授は恍惚とした表情で、地下室の壁に貼られたチャートを指差した。
それは、私の脳波の計測記録だった。複数の波形が、次第に一つの、強固なリズムへと収斂していく様が描かれている。
「君は、真の『多様性』を体現している。そして、その証拠となるはずだったレポート……君のデスクにある、あの論文は、すべて私が意図的に書かせたものだ」
その瞬間、稲妻が走ったような衝撃が私を貫いた。
レポート。
「男脳・女脳の神話は、意図的な誤解や偏見に基づいて作られた可能性が指摘されている」
「すべての人に混在している」
レポートの結論が、すべて、私という人体実験の結果を隠蔽し、一般化するためのアリバイだったとしたら。
私は、この世で最も強く「性差の不在」を証明する生き証人であると同時に、最も露骨な「性差の創造」の被害者だったのだ。
教授は満面の笑みを浮かべ、両手を広げた。
「さあ、私を告発しなさい。訴えなさい。だが、誰が信じる? 君の頭蓋骨の中が、五人の他人の断片でできていると、誰が証明できる? 君のその論理的な思考回路も、感情的な反発も、すべてが私に与えられた『道具』だ。君は、私という神話創造者の、完成したメッセージなのだ」
教授の言葉が、私の頭の中の糸を、プツリと切断した。
怒り、悲しみ、絶望。それらの感情が、バラバラの断片となり、頭蓋内で暴れ回る。
私は両手を耳に当て、叫び声を上げようとした。
だが、口から出たのは、甲高い女性の悲鳴だった。
その声は、私自身の声ではない。私の中に縫い付けられた、二人の女性の断片のうち、最も感情的な部分が弾け飛んだ音だ。
教授は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに満足げに頷いた。
「そうだ、その反応こそが美しい。君の感情野は、まだ生きている」
その時、足元に倒れた回転椅子の脇に、あの黒い受話器が入った金属箱が落ちているのが見えた。
私は反射的にそれを掴み、教授めがけて投げつけた。
ガシャン!
受話器は教授の額に直撃し、金属箱は大きな音を立てて資料棚にぶつかる。
教授はよろめき、額を押さえた。その指の間から、粘性の高い血が滴り落ちる。
そして、その顔を見た瞬間、私は自分の体が弛緩するのを感じた。
教授の顔だ。間違いない。
しかし、その表情は、私自身のものと瓜二つだった。
疲労に滲んだ目元。無精髭。深い隈。
私が鏡で見た、あの平凡な三十代の男の顔。
違う。教授は老年だったはずだ。
教授はゆっくりと微笑んだ。血の混じった唾を吐き出す。
「気づいたかね? 『最高傑作』よ」
教授の口調が、私の声と全く同じになっている。
「君がこの部屋でそのレポートを読み、真実に到達するプロセス。その全てが、私自身が過去に辿った道だ。君もまた、私に『補強』された者。だが、同時に、私こそが、君という『縫合されたモザイク』の将来の姿なのだ」
私の頭の中で、五つの断片が、一気に収束した。
論理が、感情を瞬時に呑み込む。
私は悟った。教授は、私ではない。
教授は、私の未来の肉体を、私の過去の記憶に基づいて再構築した、もう一人の私だ。
この研究所は、私のような「モザイク」を量産するための、時間軸すら無視した狂気の工場なのだ。
そして、私という存在が、やがてあの老人となり、次の「最高傑作」を生み出すために、この地下室に戻ってくる。
このレポートを読み、この真実を知り、そしてこの教授=未来の自分を「殺し」て、永遠にこの地下室に閉じ込められるために。
蛍光灯が完全に消え、地下室は漆黒の闇に包まれた。仁丹の匂いが、私の胸の奥に、永遠に消えない記憶として縫い付けられた。
私は、自分が今、初めて本当の意味で「多様性」を理解したのだと知った。それは、一つの肉体に複数の意識を宿し、未来の自分に過去の苦痛を反復させるという、残酷な循環だった。
(了)