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中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026

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記憶の最も古い層を掘り返すと、そこにはいつも薄暗い水音がある。

羊水の残り香のような、遠くの潮騒のような、湿ったノイズだ。

私と兄は二卵性の双子として生まれた。山あいの小さな集落で、近所に同年代の子供はいなかった。必然、世界は二人で完結した。

幼い頃の私にとって、言葉は声を伴うものではなかった。喉を震わせて空気を振動させる行為は、野蛮で回りくどい通信に思えた。兄の思考は私に、私の思考は兄に、同じ水槽へ落とした二色のインクみたいに境目なく混ざった。

庭で蟻の列を面白いと思えば、三間ほど離れた兄が弾かれたように振り返り、同じ黒い線を凝視する。兄が冷たい麦茶を欲しがれば、私は台所へ走ってコップを二つ掴む。呼びかけも合図もない。ただ脳の奥が見えない管で直結されている感覚があった。私が痛ければ兄が顔をしかめ、兄が笑えば私の胸が温かくなる。それは世界の理で、呼吸と同じくらい無意識だった。

母はそれを気味悪がっていた。

縁側で積み木をする私たちを、障子の隙間から覗く目には、我が子を見守る温度とは別の冷たさが混じっていた。ある晩、母が父に小声で言うのを聞いた。

「あの子たち、一時間も一言も喋らずに、ずっと同じタイミングで積み木を崩して笑うのよ。まるで一つの頭を二つの身体で共有してるみたいで、背筋が寒くなる」

当時の私は、その言葉の意味を理解できなかった。母の恐怖は、私たちの普通だったからだ。けれど不安は行動になった。「社会性が育たない」「言葉が遅れる」。そんな理由で、私たちは町場の幼稚園へ放り込まれた。

初めて門をくぐった日の衝撃は、今も傷みたいに残っている。

そこは暴力的な断絶に満ちていた。教室には子供がひしめいているのに、誰も私の思考を受け取らない。(あのおもちゃが欲しい)と念じても、目の前の男の子はそれを乱暴に奪う。(怖い、帰りたい)と強く願っても、保母さんは笑って肩を揺するだけだ。周囲では喚き声が飛び交っていた。必死に口を動かし、音波を撒き散らしている。私にはそれが故障したラジオが無数に並んで雑音を吐き続ける地獄に見えた。

言葉を使わなければ水一杯も飲めない。心の中のものを一度「音声」に変換して空気に乗せるしかない。他者との間に横たわる深淵を前に、私は教室の隅で立ち尽くした。

兄と目が合った。兄の顔は蒼白で、その瞳に私と同じ絶望が映っていた。

(ここは、通じない)

冷たい雫が脳裏に落ちたように思った。私たちは互いの手を強く握り、その体温だけを頼りに断絶された世界の呼吸法を覚えた。

成長と共に、濃密すぎたへその緒は少しずつ細く、長くなった。性差による変化、別々のクラス、友人関係。環境が私たちを二つの個体へ分けていった。小学校高学年には常時接続されていたラインは鳴りを潜め、言葉を使わず会話することは難しくなった。

それでも完全に切れたわけではなかった。

給食中に吐き気を催してトイレに駆け込むと、数分後に「お兄さんが早退しました」と保健室から連絡が入る。図工の時間にカッターで指を浅く切った瞬間、隣のクラスの兄が「痛っ」と声を上げたと後で聞く。微細な共鳴が、忘れた頃に偏頭痛のように戻ってきた。

中学二年の初夏、その共鳴が牙を剥いた。

五時間目の授業中、私は窓際で古文を開いていた。蝉の声が遠い、うららかな午後だった。突然、右前腕に熱した鉄棒を突き刺されたような激痛が走った。喉の奥で声が潰れ、私は反射的に腕を抱えて机に突っ伏した。脂汗が噴き出し、視界が白く明滅する。呼吸ができない。教師の足音が近づくのが聞こえるのに答えられない。

私の右腕に傷はない。痣もない。なのに骨の髄から響く鈍い痛みが神経を灼き続ける。

(折れた)

直感で分かった。これは私の痛みではない。

「……体育館」

絞り出すように呟いた瞬間、校内放送のチャイムが鳴った。男子バレーボールの授業中、着地に失敗した兄が右腕を複雑骨折したという知らせだった。

担架で運ばれる兄を遠目に見ながら、私はズキズキと疼く自分の腕をさすった。兄の苦痛が減衰せず流れ込んでくる。同情でも心配でもない。神経系が誤接続したような、痛覚の転送だった。

その夜、ギプスで固定された兄の腕を見て、母は涙ぐんだ。私は別の恐怖に震えた。もし兄がもっと酷い怪我をしたら。もし兄が死ぬような目に遭ったら。その瞬間、私は同じ苦痛を味わいながら、あるいは死の感覚を共有するのではないか。一心同体の安らぎは「他者の痛みを回避できない」という呪いに変質していた。

私はその時初めて、兄に対して明確な忌避感を抱いたのかもしれない。自分という領域を侵してくる、分身という名の他人に。

高校卒業後、別々の大学へ進むと私たちは意図的に距離を取った。恋人ができ、就職し、結婚し、家庭を持つ。盆暮れに顔を合わせても当たり障りのない近況報告だけだ。「最近どう」「まあまあだよ」。乾いた会話の裏で、互いに安堵していたはずだった。もう勝手に頭の中へ声が響かない。突然、身に覚えのない痛みに襲われない。私たちはようやく普通の兄妹になれたのだと。

三十代半ばを過ぎるまでは。

再発したのは私が三年前、夫の転勤で古い一軒家に越してからだ。

夕方、台所で夕食の支度をしていた。包丁で大根を切るリズムに合わせて、視界が二重露光を起こした。目の前にはまな板があるのに、脳裏へ別の風景が鮮明に割り込んできた。

夕暮れの海沿いの国道。潮の匂い。エンジンの振動。ハンドルを握る手。アクセルを踏み込む足裏に伝わる微細な挙動。

(……兄さん?)

これは兄の視点だ。兄が今見ているものが私に漏れている。私は手を止め、濡れた手をエプロンで拭い、携帯を取った。数年ぶりにメールを打つ。

『今、海沿いをドライブしてる? 夕日が綺麗ね』

送信して数分後、携帯が震えた。

『なんで分かった? 今、営業回りの帰りで海岸線を走ってる。サボってるわけじゃないぞ(笑)』

添付写真には、私の脳裏に浮かんだのと寸分違わぬオレンジ色の水平線が写っていた。

それから私たちの間では、奇妙な答え合わせが習慣になった。

頻度は高くない。月に一度、あるいは数ヶ月に一度。ふとした瞬間に、ノイズみたいに兄の五感が私の中へ混線する。熱すぎるラーメンの火傷。雨上がりのアスファルトの埃っぽい匂い。満員電車の整髪料の甘ったるさに酔う吐き気。そのたび私は短いメールを送る。

『舌、火傷したでしょ』
『雨、降ってきた?』

兄の返信はいつも私の感覚を肯定した。

『猫舌なの忘れてたわ』
『通り雨に降られた。傘ないのに』

私たちはそれを余興みたいに楽しむようになっていた。大人になった今では、かつて恐れた痛みの共有も、互いの生存確認のような温かみを帯びた。距離があっても繋がっている。その事実は中年の孤独を抱える私に、密かな慰めだった。

異変が起きたのは先月の下旬。

季節外れの台風が接近し、町は朝から重たい湿気に包まれていた。夫は出張で不在で、私は一人寝室で本を読んでいた。深夜二時を回っていたと思う。

文字が滲んで見えなくなった。強烈な眠気かと思ったが違う。視界が暗転した。部屋の明かりが消えたのではない。私の「目」が捉える映像の上に、別の映像が覆い被さってきた。漆黒の闇。

同時に、強烈な圧迫感が全身を包む。狭い。身動きが取れない。手足を伸ばそうとしても硬く冷たい何かに阻まれる。壁ではない。もっとざらついた、有機的な感触。

(兄さん?)

私は本を放り出して半身を起こした。心臓が早鐘を打つ。これは日常の断片とは質が違う。匂いが異常だった。湿った土。腐葉土。黴と鉄錆が混じった濃厚な臭気が鼻腔の奥へへばりつく。寒さも違う。骨まで凍みる冷気が足元から這い上がってくる。

兄はどこにいる。こんな時間に、暗くて狭くて寒い場所に。

私は震える指で携帯を掴み、兄のアドレスを呼び出した。

『今どこ? 何かあった? すごく暗くて狭い場所にいる気がするんだけど』

送信完了の表示を見つめながら、浅い呼吸を繰り返す。私の身体は布団の上のはずなのに、感覚の中の私は冷たい闇で小さく丸まっている。息苦しい。空気が薄い。酸素が足りない閉塞感が喉を締め上げる。

携帯が震えた瞬間、私は悲鳴に近い声を漏らして画面を開いた。

『? 布団の中だよ。寝てたのに起こすなよ(笑)』

息を吐き出した。目を閉じているから闇なのか。重い掛け布団で圧迫されているのか。土の匂いは、兄の部屋の湿気のせいかもしれない。自分を納得させようとする。

『ごめんごめん。変な夢でも見てたのかも。おやすみ』

携帯を枕元へ置いた。

だが違和感は拭えなかった。

兄の軽口はいつも通りなのに、私の中に流れ込む感覚は緩まない。布団の中? この肌に触れる冷たく湿った感触は綿や羽毛ではない。もっと重く、粘度がある。濡れた土砂に全身を埋められているような重み。

それに音だ。兄が寝ているなら静寂か雨音のはずだ。けれど耳に届くのは奇妙なリズムだった。

ザッ、ザッ、ザッ。

何かが頭上から落ちてくる音。時折混じる遠いかすれ声。言葉の形になりきらない声。

私はもう一度携帯を掴んだ。

『本当に家? 電気つけて写真送ってよ』

数分後、返信が来た。添付画像を開く。見慣れた兄の部屋。散らかった机。読みかけの雑誌。足元に丸まる飼い猫。撮影時刻は今。

『ほら。疑い深いなあ。明日は早いんだから、もう寝るぞ』

画像を見て、私はようやく体の力を抜いた。私の勘違いだ。最近、情緒が不安定なところがある。息苦しさも土の匂いも、脳が作った幻覚なのだろう。そう言い聞かせて電気を消し、目を閉じた。

眠りは来なかった。

目を閉じると闇の濃度が増す。そして感覚が鮮明になる。土の重み。これは間違いなく土だ。顔の上に、胸の上に、泥を含んだ重い土がのしかかる。口の中がじゃりつく。砂が入ってきた。

唾を吐き出そうとして、自分の口が布団に押し付けられていることに気づいた。違う。現実の私の口には何もない。砂が入っているのは兄の口だ。兄は今、口の中に土を詰め込まれている。

なのに、さっきメールを返した。

「寝るぞ」と打ってきた。

矛盾が、鋭い刃みたいに理性を裂く。

あの写真は本当に今のものだったのか。撮影時刻などどうとでもなる。あるいは誰か別の人間が、兄の部屋で、兄の携帯を使って撮影したのかもしれない。そしてその時、兄本人は。

私は跳ね起きた。全身が冷や汗で濡れている。もう一度メールをするべきか。けれど兄が事件に巻き込まれているなら、犯人に気づかれるかもしれない。電話を鳴らしたらどうなる。着信音が、あの狭い闇の中で響いたら。

私は兄の奥さん、義姉の番号を探した。深夜三時。非常識だが躊躇っている場合ではない。

コール音。四回目で繋がった。

『……はい』

眠気と苛立ちを含んだ声。

「ごめんなさい、夜分に。私です、妹の」

『ああ、〇〇さん? どうしたの』

「あの、兄さんは。兄さん、そこにいますか」

沈黙。気配が変わる。

『え? 何言ってるの?』

「兄さん、家で寝てるってメールくれたんですけど、ちょっと胸騒ぎがして」

『メール?』

義姉の声が裏返った。

『そんなはずないじゃない。あの人、今、家にいないよ』

私の中の水音が、ひどくゆっくりになった。

『一昨日から出張だって言って出てる。今日はどこかに泊まるって』

具体的な地名は出なかった。義姉も確信がない口調だった。ただ、家ではない。そこだけが、冷たく確定した。

携帯を握る手が震えた。通話は繋がったまま。義姉が何か言っているが、遠い。なぜならその瞬間、私の中に流れ込む兄の感覚が限界を超えて暴走し始めたからだ。

ドサッ、ドサッ。

頭上から落ちる土の音が、鼓膜を直接叩くほど大きくなる。呼吸ができない。胸郭が圧迫され、肋骨が軋む。肺の空気が重みに押し出されていく。苦しい。熱い。暗い。喉の奥まで泥が詰まっている。叫びたいのに声帯が振動しない。

これは幻覚じゃない。

兄は今、確実に、生き埋めにされている。

誰に。どこで。そんな推測は意味を失った。この苦しみ、この絶望。兄の意識が死の縁で恐怖に染まり、救いを求めて私へ殺到してくる。

助けて。

言葉にならない悲鳴が濁流となり、私の自我を押し流そうとする。

「兄さんが」

私は受話器に向かって絶叫した。

「兄さんが埋められてる。土の中よ。今、息ができない」

『落ち着いて、何の話……』

義姉の声が遠ざかる。視界が暗い。現実の部屋の明かりがついているはずなのに、網膜には闇しか映らない。兄の視覚が、私の視覚を上書きしている。

その闇の中で、ふと光が見えた。針穴ほどの一点。遥か上。そこが地上だ。出口だ。けれど土の重みは増すばかりで、指一本動かせない。意識が遠のく。兄の命が消える。それと一緒に、私も引きずり込まれていく。

このままでは、私も死ぬ。

恐怖のあまり、私は自分の喉を掻きむしった。

その時、ポケットの中で携帯が震えた。

痙攣する手で画面をかざす。液晶の光だけが網膜を焼く。

兄からのメール。

『苦しいか?』

短文だった。答え合わせではない。嘲笑うような問いかけ。

『俺も苦しかったよ』

心臓が止まるかと思った。俺も。も、という言い方が引っかかった。次の瞬間、頭の中で炸裂していた土の匂いと圧迫と窒息が、ぷつりと途絶えた。テレビの電源が切れたみたいに唐突な静寂。

部屋の風景が戻る。雨音。自分の荒い呼吸。

解放されたのではない。

接続が切れたのだ。

「兄さん」

虚空に呟いても返事はない。頭の中の水槽は空っぽになっていた。

その後の二日間、私は何も確かめられなかった。電話は繋がらず、義姉も何かに追われているようだった。ニュースを見ても、何も出ない。台風の被害はあちこちで起きていた。崖崩れも、土砂も、交通止めも。

三日目の夕方、義姉から短い連絡が来た。

見つかった、と。

山の中の土砂崩れの現場で、兄は土の下から掘り出された。何かが滑り落ち、何かが埋めたらしい。詳細は言葉にならなかった。義姉の声は途中から泣き声に崩れ、私はそれを聞いているのに涙が出なかった。

葬儀は滞りなく終わった。

私は喪服のまま棺の中の兄の顔を見た。綺麗に化粧をされているのに、表情は能面みたいに平らだった。義姉は泣き崩れていたが、私は一滴も流せない。悲しみより恐怖が勝っていた。

あの夜、兄は確かに死にかけていた。あるいは、もう死んでいた。なら、誰がメールを返したのか。誰が写真を送ったのか。あの「苦しいか?」は、誰の言葉だったのか。

答えは出なかった。出ないままの方が、楽だった。私は思考の穴に落ちないように、ただ生活へ戻った。

法要が終わり、自宅に帰った夜、夫は気を使って私を一人にしてくれた。静まり返ったリビングで私は携帯を眺めた。もう着信音が鳴ることはない。頭の中へ誰かの思考が流れ込むこともない。

三十数年間、常に半身として存在していた感覚が消え、私は初めて完全な個になった。

寂しさよりも、安堵があった。

もう痛くない。もう苦しくない。

私は冷蔵庫から麦茶を出してコップに注ぎ、一気に飲み干した。冷たさが食道を落ちる感覚は、私だけのものだった。

その時、不意に右手が勝手に動いた。

私の意志ではない。操り糸を引かれたみたいに携帯を掴み、カメラを起動した。止まらない。指が勝手に動く。インカメラへ切り替わる。画面に青ざめた私の顔が映る。シャッター音。メール作成画面。宛先に兄のアドレスが入る。添付ファイルに今の自撮り。本文入力欄へ、指が高速で文字を打ち込んでいく。

私はただ眺めることしかできなかった。

打たれた文字はこうだった。

『今、ここから見てるよ』

送信ボタンが押された。送信完了。

直後、頭蓋骨の内側で、懐かしい水音がした。チャポン、と何かが落ちる音。

そして腐臭が鼻の奥で爆発した。土の匂いじゃない。甘ったるく耐えがたい、肉が崩れる匂い。

(ああ、やっと繋がった)

声が響いた。

兄の声ではない。

もっと低く、地底から響くような声。それなのに、どこか私の声でもあった。感覚が逆流してくる。兄が私を感じていたのではない。死んだ兄という器に、私が流れ込んでいくのか。逆だ。兄という死が、私という生きた器へ流れ込んでくるのか。

携帯の画面が明滅した。

『受信:兄』

本文を開く必要はなかった。その内容は、脳へ直接刻まれた。

(こっちは狭いから、そっちに行くね)

私の口角が、私の意志とは無関係に、三日月型に吊り上がった。

(了)

[出典:971 :可愛い奥様:2018/08/26(日) 00:28:04.85 ID:/8M9RpG90.net]

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