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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

煙とアルコールと、穴の空いた背中 n+

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父が死んでから、うちのトイレには二種類の匂いが棲みついた。

ひとつは煙草の匂い。
もうひとつは、うまく言葉にできないが、鼻が本能的に拒否するような、古い記憶の底をくすぐるような悪臭。

煙草なんて私は吸わないし、誰かを呼ぶことも、当時の私にはほとんどなかった。
というより、呼べなかった。
離婚して、仕事も長く続かず、大病を患って体の一部に後遺症が残っていた。
人付き合いなんて、あの頃の私には高望みだった。
友人も、恋人も、家族も、いなかった。

父の死を見届けてから、少ししてそれは始まった。
最初に気づいたのは、真夜中。
眠りが浅くて、トイレに立ったときだった。

便座に座った瞬間、むっとする煙草の匂いが鼻を突いた。
焦げた紙、火をつけたばかりの葉、そして少しだけ湿った人肌の香り……。
私の家には灰皿すら置いていないのに。

最初は誰かが廊下で吸ったのかとも思ったが、そんなことが続くはずもない。
何度も何度も、日を置いて、それは戻ってきた。
しかももう一種類の匂いと交互に。

そのもう一つが、もっと不快だった。
胃の奥から突き上げるような、混じり気のあるアンモニア臭と、酸化したアルコールの甘ったるさ。
はっきりとは思い出せないのに、確実にどこかで嗅いだことのある臭い。

ある日、やっと記憶の底から引き上げた。
小学校の朝、父のあとに入ったトイレの空気と、まったく同じだった。
父は朝が弱く、酒が抜けきらぬまま、何とか会社に這うように出ていた。
トイレにこもって、重たい音を響かせながら、煙草をふかしていた。

それにしても、なぜ今、あの匂いが私の家のトイレに……?

私は霊感というものがまったくない。
実家の家族は揃いも揃って何かしら持っていたが、私だけは「まっさら」で通してきた。
見えないし、感じない。
そのことを、むしろ誇りに思っていた。
だが、あの匂いは、記憶でも錯覚でもなかった。

誰もいないのに、そこに“いる”。
目を閉じると、あの図太い咳払いが耳の奥に響くような錯覚。
鼻腔に絡みつくような煙とアルコールの残り香。

父は私にとって、あまりにも重たい存在だった。
若い頃から酒に溺れ、暴れ、家の壁に穴を開け、食器を投げ、母を泣かせた。
なのに私の名前を呼ぶときだけ、妙に優しかった。
酔っていないときの記憶はほとんどないのに、その声だけは、いまだ耳の底に残っている。

父が死んだとき、私は泣かなかった。
それでも遺品を整理していた母が、ぼそりと漏らした一言に、胸の奥が冷えた。

「日記の最後のほう、○子のことばっかり書いてたよ。“気掛かりだ”って、何度も」

私はそれ以上、見たくなかった。
知りたくなかった。
死んだあとに、優しくならないでほしかった。
生きているときに、それをしてほしかった。
そういう思いが、まだ胸の中で腐りかけていた。

……だからかもしれない。
あの匂いが続いたのは、三年ほどだった。

ある日を境に、ぱたりと消えた。
何の前触れもなく、ある朝トイレに入ると、空気が澄んでいた。
それは奇妙なほど、無臭だった。
そのとき、私は彼の“気配”を失ったと感じた。

消えた理由は、たぶん夫だと思う。
いまの夫と出会って、少しずつ外出するようになり、笑う日も増えた。
再婚して、戸籍に夫の名が記されたとき、あの匂いは二度と戻らなかった。

夫は軽く笑って言った。

「お前のお父さん、合格って言ってくれたんだろうな」

でも、私はまだ、あのトイレに長く座れない。
煙草の匂いもしないし、酸っぱいアルコール臭もしない。
ただ、じっとしていると、ときどき、冷たい視線を背後に感じる。

視線の主が、夫ではないのはわかっている。
どこか、背中の左上あたり……肩甲骨の、ほんの少し下に、穴が空くような凝視。

何も見えない。何も聞こえない。
だけど、その冷たさだけは、たしかに“生きていたころの父”とは違っている。

生きているときの父は、温かった。
あんなに乱暴でも、体は人間の温もりを持っていた。
だけどこの視線は、何か別のものだ。
父の“名残”ではなく、“何か別のもの”に、私は見つめられている気がする。

夫は言った。
「お前の父さんに合格をもらったんだろうな」

でも、あの“何か”は……。

私が合格したと、思っていないのかもしれない。

[出典:883 :可愛い奥様:2008/07/16(水) 05:49:24 ID:/YJkHSSiO]

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