あれは、去年の夏のことだ。
発端は、妹からの電話だった。
彼氏の家で、妙なものが出るらしい、と言う。若い女の子の姿で、廊下の水槽の前に立っているのを何人かが見たというのだ。それと前後して、彼氏の家族の身の回りに不運が重なっているとも。
事故、病気、左遷。偶然と片づければそれまでだが、妹の声は本気で怯えていた。
軽い気持ちで、会社の先輩に話した。
先輩は笑いながら、「会わせたい奴がいる」と言った。
それが、芳子さんだった。
最初に会ったのは、山中の廃村へ向かう夜だった。肝試しと称して車を出し、信子さんと芳子さんを乗せて、俺たちは暗い山道を走った。
目的の一軒家は、廃村の入口にぽつんと立っていた。
外壁は剥がれ、窓は黒く口を開けている。
だが中に入った瞬間、違和感があった。
生活の気配がある。
ぬいぐるみ。カーペット。ほこりの積もっていない床。ついさっきまで誰かがいたような空気。
二階へ続く階段の途中に、女の子が立っていた。
十歳くらい。無表情で、ただこちらを見下ろしている。
次の瞬間、甲高い声が響いた。
「お母さん!」
助けを呼ぶ声ではなかった。
知らせる声だった。
俺たちは家を飛び出し、車に転がり込んだ。
エンジンをかけようとした先輩の手を、後部座席から芳子さんの声が止めた。
「女の子、見たでしょう」
それだけ言って、静かに笑った。
もう一度、見てきなよ。
抗えない何かに押されるように、俺たちは再び家へ近づいた。
中は、完全な廃墟だった。
床は抜け、壁は崩れ、さっきまでの生活の痕跡は何一つ残っていない。
まるで、俺たちの記憶だけが浮いているみたいだった。
その夜以降、俺は芳子さんの視線が気になった。
あの廃村で、彼女は一度も家に入っていない。
それなのに、何を見ていたのか。
数日後、妹を連れて彼氏の家へ向かった。
家の前に車を停めた瞬間、芳子さんが二階の窓を指した。
「あそこ。女の子が立ってる」
金髪っぽい長い髪。十代。今風の服装。
妹に似ている、と。
妹が息を呑んだ。
それは、彼氏の家で目撃されていた姿そのものだった。
誰も詳細は話していない。
それでも芳子さんは、迷いなく言い当てた。
家には入らなかった。
車の中で、芳子さんは目を閉じたまま、ぽつりと呟いた。
「部屋が散らかってる。壁一面に人の顔。赤い傷みたいなのがある」
妹は小さく頷いた。
それは彼氏の部屋だった。
しばらくして、芳子さんは言った。
「女の子は、直接は関係ない。あれは、もう動かない」
その言い方が引っかかった。
動かない、とは何だ。
「でも、車は違う」
彼氏の兄の車だという。
そこに男がいる、と。
好きで乗っている。
手放したくない、と。
その後のことは、早かった。
車は処分された。家は徹底的に掃除された。庭には明るい花が植えられた。
不運は、止まった。
母親の体調も落ち着き、家族の空気は軽くなったらしい。
妹は言った。
「やっぱり、あの人すごいよね」
俺は、そうだな、とだけ答えた。
だが一つだけ、気になっていることがある。
廃村のあの家で、女の子は「お母さん」と呼んだ。
彼氏の家で見られていた女の子は、廊下の水槽の前に立っていたという。
水槽の中には、金魚がいた。
芳子さんが最初に指差した窓は、その水槽のある廊下に面していた。
俺たちは、廃村の女の子の話を一切していない。
それなのに、芳子さんはあの夜、帰り道でぽつりとこう言った。
「呼ばれたのは、あの家の人じゃないよ」
誰が呼ばれたのか、と聞き返す前に、話は途切れた。
今も時々、夢を見る。
階段の途中に立つ女の子が、こちらを見ている。
そして、俺の後ろに向かって叫ぶ。
「お母さん!」
振り返ると、そこには誰もいない。
だが目が覚めたとき、決まって枕元が少し湿っている。
まるで、水槽の水がこぼれたみたいに。
妹の家は、その後も平穏だ。
俺も特に不運はない。
ただ、部屋を片づけても、花を飾っても、時々、階段の上から視線を感じる。
廃村には、もう行っていない。
あの家が今どうなっているのかも、確かめていない。
確かめないほうが、いい気がする。
あの夜、誰が呼ばれたのか。
それだけは、まだ分からないままだ。
[出典:250 :本当にあった怖い名無し:2008/01/03(木) 23:19:12 ID:8iK5R4kZO]