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短編 r+ ヒトコワ・ほんとに怖いのは人間

【閲覧注意】八階と一階の記憶 r+5,415

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私は蜘蛛が嫌いだ。

ただの嫌悪ではない。皮膚の裏側に小さな牙を何本も埋め込まれたような、じっとりとした、どうしようもない恐怖だ。

理由は分からない。いや……分かっているのかもしれないが、それを認めたくないのだと思う。

記憶は、兵庫県のSという地域にあるマンションから始まる。三棟建ての古い建物で、裏手には山が迫っていた。虫が異常に多い地域だった。
八階の奥まった部屋に住んでいて、同い年の友達が三人いた。ガガンボが飛び交い、蜘蛛が巣を張る場所で、泥だらけになってよく遊んだ。

久二(くに)くんという名前の子がいた。一階に住んでいた、少し影のある子。あまり外に出ず、内向的だったけれど、パトカーのミニカーとかで遊ぶのは好きだった。
だから月に一度くらいしか遊ばなかった。だけどある日、私は一人で彼の家に行った。

一階はいつも湿っていて暗く、曇りの日など、まるで夜のようだった。彼の家に着いたとき、胸の奥がゾワゾワしていたのを覚えている。

居間で遊んでいる最中に、ふと見上げると、箪笥の上に奇妙なレール状のおもちゃが見えた。
プラスチックのレールが絡まりあい、立体的な迷路のようになっている。私の知らない種類の玩具だった。

「あれで遊ぼうよ」
そう言った私に、久二くんは言った。

「壊れてるんだよ。和也くんが壊したじゃないか」

和也……それは私の名前だった。

私は絶句した。見たこともないおもちゃだ。なのに、壊したと言い張る久二くん。
まるで記憶をすり替えられたような感覚に、喉が詰まりそうになった。

訴えるように久二くんのお母さんを見た。すると彼女までが、

「そうねえ、和也くんが壊したから、もう遊べないのよね」

……おかしい。私は確かに幼かったが、当時から記憶ははっきりしていた。
彼の家に来たのは初めてだ。少なくとも、私はそう思っていた。

不条理という感覚を、生まれて初めて味わった瞬間だった。
居心地の悪さと、消せない違和感を抱えたまま、私は家に逃げ帰った。
両親には話せなかった。話したところで「子ども同士のケンカ」で片付けられる気がした。

それからまもなく、家族で東京へ引っ越した。

その後の私は、虫好きな子どもになった。誕生日に叔母からもらった『ファーブル昆虫記』を読みふけり、虫たちの生態を夢中で追いかけた。
引っ越し先も自然が多く、毎日虫捕りに明け暮れた。

ただ――蜘蛛だけは、どうしてもだめだった。

ページの中の蜘蛛の話は面白かった。だけど、姿を思い浮かべるだけで、喉の奥が苦くなった。
他のどんな虫とも違う。蜘蛛だけは、生理的に、精神的に、すべてを拒絶した。

それでも理由は分からなかった。いや、本当は、思い出したくなかったのかもしれない。

年月は過ぎ、大学を出た頃だったか。久しぶりに実家に帰省し、母と昔話をしていた。
懐かしい名前がいくつか出てきて、あのマンションのことも話題に出た。

「お前はさ、小さい頃、本当に蜘蛛がダメだったよ」

そう言って母は笑った。

「夜中にいきなり『蜘蛛いやだーっ!』って泣き叫ぶんだよ。寝ぼけてる感じじゃなくてさ、まるで本当に見えてるみたいに、泣きながら這い回って……。あれ、怖かったよ」

……記憶にない。そんなこと、本当にあったのか?
記憶が、自分の中でノイズのようにざわめいた。まるで何かを覆い隠していた布が、剥がれかけているような感じ。

私は言った。

「そういえば……久二くんって子、いたよね」

母は、ああ、と目を細めた。

「いたいた。久二くん。あの子の家、裏がすぐ山だったからね。大きな蜘蛛、たまに出たんだって。手のひらくらいのやつ」

――その言葉を聞いた瞬間、何かが切れた。

記憶が、一気に蘇った。

久二くんの部屋。あのレールのおもちゃ。箪笥の上に置かれた、どこか歪んだ玩具。
私がそれに触れようとした時、確かに……床に倒れこんだ。そして……

久二くんが泣きながら言ったのだ。

「壊した、壊した、壊した!許さない!」

久二くんの母親が、彼の肩に手を置いてこう言った。

「どうしたら和也くんを許せるの?」

そして久二くんが、笑いながら言った。

「じゃあ……蜘蛛、食べさせて」

冗談だと思った。私は笑った。泣き笑いになっていた。

だが、数分後。彼女は戻ってきた。手には、黒くて毛のある塊。

「大きいのがいたから、こっちにした」

顔のすぐそばに、それを近づけられた時のことは、忘れようとしても無駄だった。
それは私の口に押しつけられた。力強く、粘っこく、冷たく湿った足が、唇に触れた。私は叫んだ。

彼女は笑っていた。喜々として。怒っているのではない。遊んでいた。私の壊れた反応を楽しんでいた。

「お母さんには言っちゃだめよ」

その一言で、私はすべてを封印した。いや、封印されたのだ。

私は逃げるように自分の部屋に戻り、布団をかぶった。あの日から、蜘蛛のことを考えるたび、身体が熱を帯びる。骨の内側に、あの蜘蛛の脚がまだ這い回っているような感覚。

そうだ。私が蜘蛛を嫌いな理由。

それは……私が、かつてそれを、口に入れられたからだ
誰かの手で。
嬉しそうな、誰かの顔と共に。

(了)

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