湿気を含んだ風が、首筋にまとわりつく。
六月の山は、生き物の匂いで満ちている。腐葉土が発酵する甘さと、若葉の青臭さ。その奥に、獣の脂のような重たい気配が混じって、肺の奥まで入り込んでくる。
登山靴の紐を締め直し、足元を確かめた。今日は仕事ではない。会社には調査と伝えたが、実際は単独での山歩きだ。誰にも合わせず、誰にも気を遣わず、自分の呼吸と筋肉の反応だけに集中できる時間が欲しかった。
この山域は入山届が必要で、一般道とは違う。階段も道標もなく、踏み固められた痕跡と、枝に結ばれた色褪せたリボンだけが進路を示している。
九時を過ぎ、針葉樹林を抜けて広葉樹の森に入った。光が砕け、梢の影が地面に揺れる。視界の端で、何かが動いたような錯覚が何度も起きた。
足音だけが響く。遠くでカケスが鳴き、すぐに森は元の沈黙へ戻る。沈黙というより、低く唸るような音が重なっている。葉擦れ、幹の軋み、地中の気配。それらが圧となって皮膚を押してくる。
二時間ほど歩いた頃だった。
左の斜面、熊笹と灌木に覆われた急な下りから、音がした。水音だ。細い沢ではない。もっと低く、重く、腹に響く音。
地図を確認する。谷はあるが、水線はない。国土地理院の地図にも、古い資料にも、この場所に滝は記されていない。
空耳だろうと自分に言い聞かせ、歩き出そうとした瞬間、風向きが変わった。
谷底から吹き上げる風は冷たく、金属のような水の匂いを含んでいた。その奥に、嗅ぎ慣れない臭いが混じる。生臭さと甘さが絡んだ、古い革を煮たような匂い。
身体が止まった。行くなという感覚と、行けという衝動が同時に湧く。理性は正規ルートを外れるなと告げ、本能は音の正体を確かめろと囁いた。
藪の奥で、白いものが一瞬光った。水飛沫にも、布切れにも見えた。
気づいたときには、足が藪に踏み込んでいた。熊笹が絡みつき、棘がウェアを引っ掻く。引き返そうと思ったが、足は重力に従うように下へ向かった。
斜面は急で、倒木が崩れ、虫が散る。岩角と木の根を掴みながら下る。不思議と疲れはない。頭が熱を持ち、感覚が研ぎ澄まされていく。
藪が途切れ、視界が開けた。
切り立った岩壁に囲まれた裂け目。その奥に、滝があった。落差は二十メートルほど。水量は多く、白濁した水が黒い岩肌を叩きつけている。轟音が谷に反響する。
地図にない滝。
美しすぎる、と感じた。苔の緑、水の白、岩の黒。その配置が整いすぎている。作られた庭のような違和感。あの臭いが、ここでは濃く漂っていた。
滝壺に近づく。岩は滑り、足を誤れば落ちる。水は黒く、底が見えない。
右手の岩棚に、白いものがあった。流木ではない。ゴミでもない。
近づくにつれ、心臓が暴れた。見てはいけないと分かっているのに、足が止まらない。
滝の音が、突然遠のいた。
そこにあったのは、紺色のマウンテンパーカーと、そのフードから覗く白い頭蓋骨だった。眼窩は空洞で、こちらを向いているように見えた。
納得が胸に落ちた。あの匂いの正体だ。
左腕が不自然に伸び、指先が滝壺の縁を指している。私はしゃがみ込み、周囲を確かめた。装備は見当たらない。体の下に、硬い感触があった。引き抜くと、革製の財布だった。
岩棚の縁に、刻み跡があった。苔を払うと、漢数字の日付が現れる。
一九九八年、七月。
その下に、稚拙な絵。人の形と、大きな丸。人は丸から逃げるように描かれている。
背筋が冷えた。私は立ち上がり、スマホを取り出したが圏外だった。戻らなければならない。
斜面を登り始めたとき、背後で滝の音が一瞬だけ歪んだ。笑い声のようにも聞こえた。振り返ると、霧が舞っているだけだった。
正規ルートへ戻り、通報した。遺体は回収され、事故死として処理された。刻印について、私は何も言わなかった。
それから、夢を見る。
雨の谷底。私は石を持ち、岩に何かを刻んでいる。刻み終えると、誰かがこちらを見ている。
後日、財布の中身を確認した際、写真が一枚入っていた。山頂で笑う若い男。私によく似ている、とそのときは思った。
今も、私はあの話を穏やかに語る。装備の中には、重いハンマーが増えた。地図には、小さな丸が一つ。
理由は考えない。
ただ、あの滝は、今も地図には載っていない。
[出典:534 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/07/25(金) 12:46:48.63 ID:RtwspiUR0.net]