父の会社が潰れたのは、俺が高校二年の夏だった。
それまで小さな会社とはいえ、社長の息子として育ってきた。家も、進路も、就職先も、なんとなく既定路線の先にあるものだと思っていた。それが一日で消えた。
父は「学費くらいは何とかしてある」と言ったが、通帳の残高を見たとき、四年制の大学は無理だと分かった。俺は専門学校を選び、少しでも早く働く側に回ることにした。
上京して借りた部屋は、アパートというより物置だった。古い木造の二階で、広さだけは妙にある。大家が使わなくなった家具やよく分からない箱が隅に積まれたままで、住んでいるのは実質俺だけだった。夜になると、誰もいない廊下で床が鳴った。風もないのに、襖の縁がかすかに鳴ることがあった。
それでも家賃は安かった。あの頃の俺には、安さだけで十分だった。
専門に通いながら始めたバイト先に、恵子ちゃんという子がいた。真面目で、派手ではないのに目を引く顔立ちで、笑うと少しだけ目尻が下がった。余裕ができたら告白しようと、勝手に決めていた。
その前に、別の男が先に手をつけていた。
そいつは店でもうるさい奴で、酒が入るともっとひどかった。何人かで飲んだ夜、そいつは得意げに「俺、恵子ちゃんと付き合ってる」と言い出した。そこまではまだよかった。次に、初めて寝た夜の話を始めた。どこで、どういう顔をして、何を言ったかまで、笑いながら細かく喋った。
途中から何を飲んでいたのかも分からない。頭の奥だけが熱くなって、吐きそうになって、誰にも何も言わず店を出た。
帰る気になれなかった。
最寄り駅で降りてからも、あの部屋に戻る気がしなかった。父の倒産も、進路も、住んでいる場所も、その夜だけ急に現実味を増して、全部まとめて喉元までせり上がってきた。
気づくと、知らない公園のベンチに座っていた。缶ビールを一本だけ買って、半分も飲まないうちにぬるくなった。
「なんで俺だけ」
口に出した途端、涙が出た。情けないと思ったが、止まらなかった。誰もいないと思っていたから、嗚咽も抑えなかった。
そのとき、すぐ後ろで声がした。
「泣いてるの」
子どもの声だった。
振り返ると、街灯の届かない端のほうに、小さな女の子が立っていた。五歳くらいに見えた。白っぽいワンピースを着て、両手を前で重ねている。顔は暗くてよく見えなかった。
こんな時間に、子どもが一人でいるはずがない。
声をかけようとしたが、その前に女の子が言った。
「どうしたの」
しゃくり上げる息を飲み込んで、俺は無理に笑った。「大丈夫だよ」と言ったつもりだったが、うまく声にならなかった。
するとその子は少し首を傾げて、妙に落ち着いた口調で言った。
「泣かないで、だいじょぶだよ」
その瞬間、甘い匂いがした。
花の匂いとも違う。もっと重くて、熱を持ったみたいにむっと立ち上る香りだった。子どもからするには濃すぎる匂いだった。
目を離した覚えはない。なのに、次に見たときにはもういなかった。
遊具の陰にも、植え込みの向こうにも、人影はなかった。
その夜のことは、それきりだった。
数日後に恵子ちゃんはバイトを辞めた。俺も卒業して就職し、忙しさに押し流されるようにして結婚した。子どもが生まれ、生活は狭くなったが、ようやく自分のものになった気がしていた。
娘が五歳になった夏、妻と三人で横浜へ一泊した。
夕方、公園で休んでいたとき、風で砂が舞って目に入った。痛くて思わず目をこすると、娘が駆け寄ってきた。
「お父さん泣いてるの」
手が止まった。
十五年前の、あの夜と同じ言い方だった。
俺は笑ってごまかした。「違う、目にゴミが入っただけ」と言うと、娘は少し首を傾げた。その仕草まで、どこかで見た気がした。
それから、娘は言った。
「泣かないで、だいじょぶだよ」
背中に冷たいものが走った。
言葉を返せない俺を置いて、娘はすぐに妻のほうへ駆けていった。夕方の光の中で、白っぽいワンピースの裾が揺れていた。
その晩、ホテルに戻ってからも妙な落ち着かなさが消えなかった。
シャワーを浴びた妻が洗面台の前で髪を乾かしているとき、部屋の奥から、あの匂いがした。十五年前の公園で嗅いだ、甘くて重たい香りだった。
俺は思わず聞いた。
「香水、つけてる?」
妻は鏡越しにこちらを見た。
「つけてないよ。嫌いなの知ってるでしょ」
冗談かと思ったが、棚にも洗面台にも香水らしいものはなかった。
そのとき、ベッドで寝転んでいた娘が、天井を見たまま言った。
「お父さん、あのときも泣いてたもんね」
喉の奥が固まった。
「あのときって、いつ」
娘はすぐには答えなかった。小さな足をぶらぶらさせたまま、指でシーツの縫い目をなぞっていた。
「ひとりだったとき」
部屋の冷房が急に強くなったように感じた。
「いつの話だ」
娘はようやくこちらを向いた。笑っていた。けれど、子どもが作る笑顔ではなかった。大人の機嫌を取るみたいな、覚えのある笑い方だった。
「公園だよ」
妻が何か言ったが、耳に入らなかった。俺はベッドの脇まで行って、娘の肩に手を置いた。
「誰から聞いた」
娘はきょとんとした顔になった。
「聞いてないよ」
「じゃあ、なんで知ってる」
娘は困ったように口を結び、それから小さな声で言った。
「だって、行ったもん」
その瞬間、また匂いが濃くなった。息を吸うたび、喉の奥に甘さが貼りつく。
「どこに」
俺がそう言ったとき、娘は俺の手元を見ていた。
「お父さん、また泣くの」
見下ろすと、いつの間にか自分の手の甲に水滴が落ちていた。汗ではなかった。涙だった。
娘は起き上がり、俺の顔をのぞき込んだ。
「だいじょぶだよ」
近い。
近すぎた。
娘の髪からではなく、その口の中から匂いがしていた。甘い香りが吐息に混じって、まとわりつくように流れ出ていた。
反射的に身体を引いた拍子に、ベッド脇のスマホが床に落ちた。拾い上げたとき、昼間に撮った写真が画面に出た。
公園で、娘がアイスを持って笑っている写真だった。
その奥、遊具の陰に、もう一人立っていた。
白いワンピースの、小さな子ども。
こちらを向いているのに、顔だけが暗く潰れて見えない。
娘は写真をのぞき込むと、うれしそうに言った。
「ほらね」
妻が「何?」と横から覗こうとした瞬間、娘が先に続けた。
「この子、わたしじゃないほうのわたし」
そこで初めて、妻が黙った。
何も言わずに俺の手からスマホを取ると、画面を見たまま動かなくなった。数秒後、ひどく乾いた声で言った。
「……これ、誰」
答えられなかった。
娘はベッドの上で膝を抱え、楽しそうに足先を揺らしていた。
「また、お父さんが泣いたらね」
そこで言葉を切り、鼻を鳴らすように一度だけ匂いを吸い込んだ。
「今度は、ちゃんと連れて帰るから」
その夜、娘は妻に抱かれて眠った。妻は一睡もしなかった。俺も寝られなかった。
朝になって、娘は昨夜のことを何一つ覚えていなかった。写真を見せても、「これわたしだよ」としか言わなかった。遊具の陰の子どもについても、「そんなのいない」と首を振った。
だが、写真にはまだ写っていた。
拡大すると、白いワンピースの胸元だけ、わずかに柄が見えた。
小さな花柄だった。
昨夜、娘がホテルで着ていた寝間着と、同じ柄だった。
それから、娘が泣いている人を見るたびに、俺は先にその場を離れるようになった。
電車の中でも、病院でも、テレビの向こうでも同じだ。娘は必ず気づく。じっと相手を見て、何か思い出しかけたような顔をする。
一度だけ、スーパーの駐車場で転んで泣いている子どもを見たとき、娘が小さく口を開いた。
その瞬間、あの匂いがした。
俺は娘の手を掴んで、その場から逃げた。
振り返ったとき、泣いていたはずの子どもは、もう泣いていなかった。こちらを見ていた。暗くて顔は分からないのに、笑っているのだけは分かった。
あの夜、公園で俺に声をかけたのが誰だったのか、今はもうどうでもいい。
未来の娘だったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
ただ一つだけ分かるのは、あのとき慰められたんじゃなかったということだ。
あれは、見つけられたんだ。
[出典:565 :本当にあった怖い名無し:2008/08/27(水) 17:55:08 ID:hDkhLAN/0]