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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

香水の記憶 n+

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父の会社が潰れたのは、俺が高校二年の夏だった。

それまで小さな社長の息子として、なんとなく「自分の人生は決まっている」ような気でいた。
倒産の知らせを聞いた瞬間、床が抜け落ちるみたいに、足場を失った感覚があった。

「学費分は寄せてあるから心配するな」
そう言われたけど、実際に口座を見せられたとき、あれで四年制の大学に通えるはずがないと悟った。
結局、俺は専門学校を選んだ。少しでも早く働いて、家に金を入れられるようにと思った。

上京して見つけた住まいは、アパートというより物置小屋だった。
古い木造の建物の二階。大家が使わなくなった空き部屋に、産業廃棄物のようなガラクタを押し込んでいたせいで、住人は俺一人だけだった。
不動産屋も気の毒に思ったのか「礼金は要りません」と言ってくれた。
広さはあっても、板張りの床はぎしぎし軋み、夜は誰もいないはずの廊下から物音がした。
それでも家賃の安さに勝るものはなく、俺はそこに住むことを決めた。

バイト先では、俺よりずっと気楽そうに見える同世代が多かった。
中でもチャラついた男がいて、誰彼かまわず軽口を叩くような奴だった。
ある日、そのチャラ男と数人で飲みに行ったときのこと。
酒の席で、あいつは得意げに「俺、恵子ちゃんと付き合ってるんだ」と言い出した。

恵子ちゃん。俺が心の中で思いを寄せていた女の子。
真面目で純朴そうで、顔立ちは整っていて、どこか菅野美穂を思わせた。
バイトをやめて金を貯め、新しい部屋に移ったら、改めて告白しようと考えていた相手だった。

けれどチャラ男の口からは、あまりに具体的で下卑た話が次々とこぼれ出た。
初めて二人が関係を持った夜のこと、どんなふうに振る舞うのか、聞きたくもない描写ばかり。
俺は顔が熱くなり、頭が真っ白になった。
吐き気がこみ上げ、平静を装ったままトイレに駆け込み、そのまま会計もせずに店を出た。

最寄り駅に戻っても、あの小屋みたいな住まいに帰る気にはなれなかった。
「なんで俺だけ、こんな目に遭うんだ」
「父親が会社を潰さなきゃ、俺だって普通の学生生活を送れたのに」
ぶつけようのない苛立ちが膨れ上がり、ふらふらと知らない路地を歩いた。

気づけば、小さな公園のベンチに腰を下ろし、缶ビールを握りしめていた。
口に流し込みながら、誰にともなく愚痴を吐く。
「なんで俺は楽しくもない毎日を……」
酔いのせいか涙がにじみ、嗚咽をこらえるのがやっとだった。

そのとき。

背後から、幼い声が聞こえた。
「泣いてるの」

振り返ると、街灯の影の中に五歳くらいの女の子が立っていた。
ワンピースを着て、小さな手を前で組んでいる。
この時間に子どもが一人で出歩くはずがない。
声を失った俺に、少女はもう一度問いかけた。

「どうしたの?」

必死に笑顔を作って「君は一人でいるの?」と返した。
けれど少女は少し首を傾げ、ぽつりと言った。

「泣かないで、だいじょぶだよ」

その言葉と同時に、影の中へすうっと消えていった。
慌てて立ち上がったが、追う気にはなれなかった。
江戸川区の下町。初めて歩く道。
「近所の子供だろう」と無理やり納得しようとした瞬間、ふわりと鼻をくすぐる香りが漂った。

むわん、と立ちのぼる甘い香水の匂い。
辺りを見渡しても、人影はない。
それでも俺は夢中でその匂いを吸い込んだ。
ちょうど自分の嗅覚のど真ん中に突き刺さるような香りだった。
落ち込んでいた気分が、一瞬だけ軽くなった。

それから数日で恵子ちゃんはバイトを辞めた。
理由は聞いていない。だが、チャラ男が「俺がしゃべったせいで」と苦笑いしていたから、何かを察したのだろう。

やがて俺は専門を終え、就職をして、結婚もした。
娘が生まれたとき、あの江戸川の夜のことをふと思い出した。
夢だったのでは、とも思った。

娘が幼稚園に通い始めたある夏。
盆休みを前に、俺と妻と娘で横浜に遊びに出かけた。
久しぶりに家族で泊まりがけの外出をしたことで、普段は淡々とした夫婦の間に柔らかい空気が戻った。

夕方、公園でアイスを食べていたとき、風に砂埃が舞い上がり、俺の目に入った。
思わずごしごしと擦っていると、娘が心配そうに近づいてきて言った。

「お父さん泣いてるの?」

はっとした。十五年前、あの夜と同じ言葉だった。
「目にほこりが入ったんだよ」と答えると、娘はにこりと笑って言った。

「泣かないで、だいじょぶだよ」

そのまま駆けていく後ろ姿を眺めながら、背筋がぞくりとした。
頭のどこかで記憶の扉が開く音がした。
あの夜、公園で声をかけてきた少女。
そのときと同じ台詞。

ホテルに戻る途中で、ようやく思い至った。
「あのときの子は、娘だったのか……?」

記憶の中の顔は朧げで、はっきりとは思い出せない。
けれど、妙な確信が胸を締め付けていた。

その夜、ホテルの部屋で着替える妻を横目に、娘とふざけあって笑った。
妻が「二人で楽しそうじゃない」と声をかけた瞬間、あの甘い香りが漂った。

むわん、と香水の匂いが満ちた。
「香水つけてるのか?」と妻に尋ねると、「さっき雑貨屋で買ったの見てなかったの?」と答えた。
普段香水などつけない妻の言葉に、心臓が跳ね上がった。
十五年前と同じ匂い。

俺は笑いを堪えながら、何も言わなかった。
妻は怪談やオカルトを毛嫌いする。話しても馬鹿にされるだけだ。
それでも、香水の香りに包まれた家族の姿は、不思議なほど鮮やかで新鮮に見えた。

翌日、実家に帰省して酒の席で両親に話してみた。
父も母も怪訝な顔をして「よくわからない」と返すばかりだった。
ただ「昔、好きだった子が菅野美穂に似ていた」という余計な情報だけは母に引っかかり、「なにそれ」と散々に突っ込まれた。

十五年越しの出来事。
偶然か、思い込みか、あるいは運命のいたずらか。
はっきりした答えは出ない。

それでも、俺は勝手に信じている。
あの夜、俺を慰めてくれた子どもは、未来の娘だったのだと。
そして、あの香水の匂いは、どこかで繋がる見えない糸のようなものなのだと。

[出典:565 :本当にあった怖い名無し:2008/08/27(水) 17:55:08 ID:hDkhLAN/0]

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