――あの夜から、五年が経った。
俺はもう岐阜にはいない。
仕事も変わり、あのバーに通っていた頃の生活とはまるで別の場所で生きている。
それでも、完全に終わったとは思えない出来事がある。
川崎村、あるいは皮裂村と呼ばれていたあの場所だ。
思い出したきっかけは、一本の封筒だった。
差出人不明。
消印は、岐阜県内の市町村名。
宛名は俺の本名で、住所も正確だった。
中には写真が一枚と、紙切れが一枚入っていた。
写真は夜の山中で撮られたものだった。
フラッシュに照らされ、中央に立つ二つの石碑。
右の角張った石碑と、左の丸みを帯びた大きな石碑。
見覚えがありすぎて、胃の奥が重くなる。
問題は紙切れだ。
そこには、たった一行だけ、手書きでこう書かれていた。
「まだ足りない」
意味は分からない。
だが、なぜか俺は「人数」のことだと直感した。
翌日、俺はサーちゃんに連絡を取った。
あの電話以来、一度も連絡を取っていなかったが、番号は消していなかった。
三回目のコールで出た。
「……ユウキさん?」
声は変わっていなかった。
だが、妙に距離がある。
俺は封筒の話をした。
写真を見た瞬間、サーちゃんは黙り込んだ。
「それ、いつ届いたの」
「昨日」
「……私も」
彼女にも同じ封筒が届いていた。
中身も同じだったらしい。
話は早かった。
二人とも、あの村がまだ終わっていないことを理解していた。
週末、岐阜で会うことになった。
久しぶりに会ったサーちゃんは、どこか別人のようだった。
化粧は薄く、服装も地味だ。
何より、目が落ち着かない。
ファミレスで向かい合うと、彼女は周囲を気にしながら声を落とした。
「ユウキさん、あの後の話、全部聞きたい?」
俺は頷いた。
「あの夜、帰った後ね……私、夢を見たの」
老婆が出てくる夢ではなかった。
夢の中でサーちゃんは、あの小屋に立っていたという。
祭壇の前ではなく、四隅の一つに。
床に置かれていたのは、動物の頭ではなかった。
人の皮だった。
しかも、見覚えのある顔だった。
「タカシさんだった」
目覚めたとき、サーちゃんの爪の間には、土が詰まっていたという。
その日から、彼女は月に一度、決まった夜に同じ夢を見るようになった。
夢の内容は少しずつ変わる。
皮の数が増えていく。
マスター。
知らない男。
知らない女。
共通しているのは、全員が夢の中で「皮」になっていることだった。
「でもね」
サーちゃんは声を震わせた。
「最近、夢に私自身が出てきた」
祭壇の前に立つ老婆の隣に、もう一人いる。
若い女。
顔は自分と同じだった。
「その女がね、私に言うの」
――次はあなたよ。
俺は背筋が冷えた。
「村のこと、まだ調べてるのか」
「うん」
彼女はカバンからノートを取り出した。
そこには、手書きでびっしりと情報が書き込まれていた。
皮裂村。
被差別。
畜生信仰。
人皮供物。
だが、途中から内容が変わっていた。
「村は廃村になっていない」
そう書かれていた。
行政上は廃村。
記録上も廃村。
だが、信仰上は廃村ではない。
村が存在する条件は、人が住むことではない。
儀式が続いていること。
それだけだ。
「皮を捧げる役目の家系があったって、前に言ったよね」
俺は覚えていた。
「その家系、絶えてない」
サーちゃんは自分の腕を掴んだ。
指先が白くなるほど強く。
「私の祖母がね、岐阜の山村出身だった」
名字を聞いた瞬間、俺は凍りついた。
ファイルにあった、皮裂村の家系の一つと同じ名字だった。
「偶然だと思ってた。でも違う」
祖母は晩年、意味不明な言葉を口走っていたという。
動物の名前。
数字。
皮、という言葉。
そして亡くなる前、サーちゃんの手を握り、こう言った。
「戻らなきゃいけない時が来る」
封筒は、その合図だった。
「ユウキさん」
サーちゃんは俺を見た。
「あなたも呼ばれてる」
否定できなかった。
写真が送られてきた理由は、それしかない。
数日後、俺たちは再び山へ向かった。
あの時と同じ道。
同じ潰れたドライブイン。
同じ砂利道。
違うのは、二人きりだということと、逃げるつもりがないことだった。
石碑は変わらず立っていた。
だが、間を抜ける瞬間、俺は気づいた。
左の石碑。
以前より、表面が新しい。
苔が剥がれている部分があった。
そこに、薄く文字が刻まれていた。
慰霊碑
奉納
令和
背中に汗が流れた。
村は、続いている。
草原の小屋には、明かりが灯っていた。
中には、老婆はいなかった。
代わりに、誰かが立っていた。
背丈は低く、髪は黒い。
振り向いたその顔を見て、俺は理解した。
サーちゃんだった。
だが、俺の隣に立っているサーちゃんとは、微妙に違う。
目が違う。
感情がない。
「足りないの」
小屋の中のサーちゃんが言った。
「まだ、皮が」
隣のサーちゃんが、俺を見た。
その目に、覚悟があった。
どちらが本物か、そんなことは問題じゃなかった。
この場所が求めているのは、選択だ。
遠くで、獣の遠吠えが響いた。
俺は、一歩前に出た。
それが正しかったのかどうかは、今も分からない。
ただ一つ言えるのは、あの村は今も生きている。
そして、呼ばれた者は、必ず戻る。
皮を、置いていくために。