ネットで有名な怖い話・都市伝説・不思議な話 ランキング

怖いお話.net【厳選まとめ】

中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026

壁一枚ぶんの生活音 nc+

更新日:

Sponsord Link

今でも集合住宅の廊下特有の匂いを嗅ぐと、喉の奥がひりつく。

洗剤と湿気と、どこか甘い埃が混じった、昼と夜の境目の匂いだ。

某不動産管理会社に勤めている知人がいる。

酒の席でも仕事の話はあまりしない男だが、その日は珍しく、グラスを置いたまま黙り込んだ。
氷が溶ける音だけが、テーブルの上で間延びしていた。

「……一週間前に死んでたらしい」

ぽつりと落とされた言葉は、最初、冗談のように軽かった。
私が眉を動かすと、男は視線を伏せたまま続きを探すように口を開く。

管理物件の一室で孤独死があった。
発見されたのは、亡くなってから一週間以上経ってから。
異臭に気づいた別の入居者が通報し、警察が入って、ようやく表に出た。

警察が来れば、当然、他の住人にも知れる。
「事故物件」という言葉は、噂話として瞬く間に膨らむ。
退去の申し出、家賃の値下げ要求、説明を求める電話。
管理会社の電話は、その日ずっと鳴り止まなかったらしい。

知人は、その中の一本を思い出したようだった。
声の調子が、少しだけ変わる。

「隣の部屋の人からだった」

私は、自然とグラスを置いていた。
隣。
孤独死があった、その真横の部屋。

てっきり、他の入居者と同じだと思ったという。
値下げか、退去か、あるいは怒鳴り声か。
受話器を取る指先に、嫌な汗がにじんだと知人は言った。

だが、電話口の声は、妙に静かだった。

用件はひとつだけ。
「いつ亡くなったのか、それだけ教えてほしい」

知人は、規定どおりの返答をした。
詳しい日時は個人情報で伝えられないこと。
ただ、発見が遅れて、一週間ほど経過していたらしい、という程度なら話せること。

電話口の沈黙が、数秒続いた。

その沈黙が、やけに長く感じられたという。
無音ではない。
受話器の向こうで、誰かが呼吸している気配があった。

そして、次の瞬間。

「……それ、嘘ですよね?」

声の調子が、そこで初めて変わった。
静かだが、乾いている。
疑っているというより、噛み合わない事実を無理に押し込もうとする音だった。

電話の主は続けた。

「死んでから時間が経ってるって、他の人から聞いて、それで確認の電話をしたんですけど……おかしいでしょう」

知人は、椅子に座り直したという。
背中に、冷たいものが走った。

「自分、普通に聞いてましたから」

何を、と問い返す前に、声は淡々と並べ始めた。

隣の部屋のドアが開く音。
夜遅くに帰ってきた気配。
テレビの音量が上がったり下がったりする感じ。
深夜、トイレに入るときの水の音。

「生活音ですよ。ずっと」

それが、亡くなってからの一週間の話だという。

知人は、その先を思い出すたび、喉の奥が乾くらしい。
電話口の相手は、取り乱してはいなかった。
怒りも、恐怖も、訴えもない。

ただ、自分が聞いていた音と、管理会社が告げた事実が、どうしても繋がらない。
その一点だけを、何度も確かめるように繰り返していた。

私は、そこで初めて、あの匂いを意識した。
酒場の中に、確かに存在していたはずの匂いが、急に別のものに変わった気がした。

廊下の、あの匂いに。

知人は、その電話を切ったあと、すぐに記録を洗い直したという。

死亡推定時刻、発見時の状況、警察からの報告。
どこを見返しても、数字は動かない。
亡くなってから発見まで、およそ一週間以上。

それでも、受話器越しの声が、耳から離れなかった。

「ずっと、聞いてましたから」

その言い方が、あまりに生活に根差していた。
幽霊だとか、怪しい音だとか、そういう言葉から最も遠い調子だった。

翌日、知人は現地に向かった。
正式な対応とは別に、隣室の住人と直接話をする必要があると感じたらしい。
自分でも理由ははっきりしなかったと言う。
ただ、電話だけで済ませてはいけない気がした。

件のアパートは、築年数の経った鉄筋造りだった。
外観は無難で、古さを誤魔化すように白い塗装がされている。
エントランスの自動ドアは少し反応が遅く、開くたびに低い唸り音を立てた。

廊下に入った瞬間、知人は足を止めた。
例の匂いは、すでに消臭処理で薄れていたが、それでも完全ではない。
鼻の奥に、重たいものが引っかかる。

孤独死があった部屋の前には、何も残っていなかった。
立ち入り禁止のテープも、警察の貼り紙もない。
ただ、ドアノブだけが、不自然に磨かれているように見えた。

その隣の部屋。
表札はなく、ドアは閉まっていた。

インターホンを押すと、すぐに応答があった。
声は、電話で聞いたのと同じだった。
年齢の判別がつかない、平坦な声。

ドアが開いた瞬間、知人は一歩引いたという。
相手は、拍子抜けするほど普通だった。
部屋着姿で、髪も整っている。
目に見えて疲弊している様子もない。

部屋の中も、生活感がきちんとあった。
脱ぎっぱなしのスリッパ。
テーブルの上の郵便物。
テレビは消えていたが、リモコンが手の届く位置に置かれている。

知人は、改めて説明した。
亡くなった日時の詳細は言えないこと。
だが、警察の見立てでは、発見まで一週間以上経っていたこと。

隣人は、黙って聞いていた。
途中で遮ることも、否定することもない。
ただ、頷く回数が、話が進むにつれて減っていった。

「……おかしいんです」

そう言ったとき、初めて、相手の視線が宙を彷徨った。

「自分、毎日帰りが遅いんですけど」

仕事の都合で、帰宅は深夜になることが多い。
その日も、いつも通り、日付が変わる頃に帰った。

「ドア、開いてましたよ」

正確には、鍵を回す音が聞こえた。
壁越しに、金属が擦れる感触が伝わってきた。

そのあと、テレビ。
ニュースか何か。
音量は小さく、内容までは分からないが、確かに人の声がしていた。

知人は、無意識に壁の厚みを想像した。
この建物は、防音が甘い。
隣の生活音が聞こえること自体は、珍しくない。

「それ、毎晩ですか」

問いかけると、隣人は首を振った。

「毎晩じゃない。でも……何回も」

具体的な回数を聞くと、曖昧に濁された。
数えていない。
数える必要がなかったから。

ある日は、トイレの水の音。
ある日は、咳払い。
ある日は、椅子を引くような音。

「一度だけ、声も聞こえました」

内容は聞き取れない。
独り言のような、短い音。
言葉というより、息に近い。

それが、亡くなってからの期間と、完全に重なっている。

知人は、そこで一つ、確認した。
警察が入った日、隣人は在宅していたか。

「いました」

救急車やパトカーの音も聞いた。
廊下のざわつきも分かった。
なのに、その時点でも、隣室が無人だとは思わなかったという。

「だって、その前の晩も……」

言葉が、そこで止まった。

前の晩。
警察が来る前の夜。

隣人は、いつものように帰宅し、いつものように風呂に入った。
湯船に浸かりながら、壁越しにテレビの音を聞いていた。

ニュースのテーマ曲。
それが終わって、別の番組に切り替わるタイミング。

「消えたんです」

突然、音が途切れた。

電源を切ったように、すぱりと。

知人は、その瞬間を想像して、背中に冷たい汗を感じたという。
生活音が止まること自体は、珍しくない。
だが、その止まり方が、あまりに綺麗だった。

「それで……初めて、変だなって」

翌日も、その次の日も、もう何も聞こえなかった。

そこでようやく、異臭騒ぎと、警察の介入が起きた。

知人は、部屋を出るとき、無意識に壁を見た。
薄いクロスの向こう側。
すでに空になっているはずの空間。

「自分が聞いてたの、何だったんでしょうね」

隣人は、そう言って笑った。
作り笑いでも、取り繕いでもない。
分からないことを、そのまま宙に置く笑い方だった。

廊下に出たとき、知人は、さっきより匂いが濃くなった気がしたという。
消えたはずの匂いが、時間を巻き戻したように。

そのとき、ふと気づいた。
孤独死の部屋と、隣の部屋。
間取りが、左右対称ではないことに。

壁の向こうにあるはずの位置に、どう考えても、トイレが重ならない。

知人は、管理会社に戻ってから、建物の図面を引っ張り出した。

紙が黄ばんだ、古い原本だった。
何度もコピーされ、角が丸くなっている。

例の部屋番号を指でなぞり、隣室との境を確認する。
壁は確かに一枚。
だが、設備の配置が、どうにも噛み合わない。

孤独死があった部屋のトイレは、玄関寄り。
一方、隣人の部屋のトイレは、奥側にある。
つまり、壁越しに水音が聞こえる位置ではない。

それだけではない。
テレビが置かれるであろう場所も、構造上、逆になる。
音が聞こえるとしたら、もっと籠もるはずだった。

「……おかしいな」

独り言が、事務所に落ちた。

知人は、念のため、警察の報告書も再確認した。
遺体の状況。
腐敗の進行。
死後経過日数。

どれも、揺るがない。

それなのに、一週間のあいだ、隣人は「生活」を聞いている。

翌週、知人はもう一度、あの部屋を訪れた。
今度は、誰にも告げずに。
業務というより、確認に近かった。

孤独死があった部屋は、すでに原状回復が始まっていた。
床材は剥がされ、壁紙も途中まで外されている。
空気が、むき出しだった。

作業員が帰ったあと、しんと静まり返った室内で、知人は立ち尽くした。
音が、まったくしない。
自分の呼吸音だけが、耳に返ってくる。

壁に手を当てた。
冷たく、硬い。
向こう側には、あの隣人の部屋がある。

そのときだった。

微かに、音がした。

耳鳴りかと思った。
だが、違う。
一定の間隔で、何かが動く気配。

ごと……ごと……。

椅子を引くような、鈍い音。
それから、かすかな電子音。

知人は、思わず息を止めた。
作業員はいない。
電気も通っていない。

それでも、音は続いた。

テレビの音声ではない。
番組でもない。
ただ、人の気配に似た、雑音。

数十秒で、それは止んだ。

知人は、その場を逃げるように出た。
廊下に出た瞬間、あの匂いが、また鼻を突いた。
処理したはずの匂い。
時間を越えて戻ってくる匂い。

数日後、隣人から再び連絡があった。
今度は、引っ越しの報告だった。

「もう、聞こえないんで」

淡々とした声だった。
理由も聞かれなかった。
知人も、聞かなかった。

退去手続きが終わり、部屋は空になった。
その後、問題は起きていない。
少なくとも、表には。

知人は、最後にぽつりと言った。

「孤独死って、独りで死ぬって書くでしょ」

私は、黙って頷いた。

「でもさ……」

グラスの縁を、指でなぞりながら。

「一週間、隣で生活してた人がいたなら、それは本当に独りだったのかなって」

その言葉が、胸に残った。

生活音とは、存在の証明だ。
誰かが、そこにいるという合図。
無意識に、私たちはそれを頼りにしている。

もし、音だけが残るとしたら。

誰にも気づかれずに死んだはずの人間が、
誰かに「生きている」と思われ続けていたとしたら。

あの隣人が聞いていたのは、死後の残響だったのか。
それとも、
生きていると思い込むことで、壁の向こうに人を作り出していたのか。

あるいは――。

管理会社の記録には、こう残っている。
「異常なし。対応完了」

だが、知人は今でも、夜中にテレビの音を聞くと、ふと考えるという。

それが、本当に、
今この瞬間の音なのかどうかを。

(了)

[出典:711 :本当にあった怖い名無し:2019/09/30(月) 14:14:09.26 ID:241MUtrr0.net]

Sponsored Link

Sponsored Link

-中編, 奇妙な話・不思議な話・怪異譚, n+2026

Copyright© 怖いお話.net【厳選まとめ】 , 2026 All Rights Reserved.