今でも集合住宅の廊下特有の匂いを嗅ぐと、喉の奥がひりつく。
洗剤と湿気と、どこか甘い埃が混じった、昼と夜の境目の匂いだ。
某不動産管理会社に勤めている知人がいる。
酒の席でも仕事の話はあまりしない男だが、その日は珍しく、グラスを置いたまま黙り込んだ。
氷が溶ける音だけが、テーブルの上で間延びしていた。
「……一週間前に死んでたらしい」
ぽつりと落とされた言葉は、最初、冗談のように軽かった。
私が眉を動かすと、男は視線を伏せたまま続きを探すように口を開く。
管理物件の一室で孤独死があった。
発見されたのは、亡くなってから一週間以上経ってから。
異臭に気づいた別の入居者が通報し、警察が入って、ようやく表に出た。
警察が来れば、当然、他の住人にも知れる。
「事故物件」という言葉は、噂話として瞬く間に膨らむ。
退去の申し出、家賃の値下げ要求、説明を求める電話。
管理会社の電話は、その日ずっと鳴り止まなかったらしい。
知人は、その中の一本を思い出したようだった。
声の調子が、少しだけ変わる。
「隣の部屋の人からだった」
私は、自然とグラスを置いていた。
隣。
孤独死があった、その真横の部屋。
てっきり、他の入居者と同じだと思ったという。
値下げか、退去か、あるいは怒鳴り声か。
受話器を取る指先に、嫌な汗がにじんだと知人は言った。
だが、電話口の声は、妙に静かだった。
用件はひとつだけ。
「いつ亡くなったのか、それだけ教えてほしい」
知人は、規定どおりの返答をした。
詳しい日時は個人情報で伝えられないこと。
ただ、発見が遅れて、一週間ほど経過していたらしい、という程度なら話せること。
電話口の沈黙が、数秒続いた。
その沈黙が、やけに長く感じられたという。
無音ではない。
受話器の向こうで、誰かが呼吸している気配があった。
そして、次の瞬間。
「……それ、嘘ですよね?」
声の調子が、そこで初めて変わった。
静かだが、乾いている。
疑っているというより、噛み合わない事実を無理に押し込もうとする音だった。
電話の主は続けた。
「死んでから時間が経ってるって、他の人から聞いて、それで確認の電話をしたんですけど……おかしいでしょう」
知人は、椅子に座り直したという。
背中に、冷たいものが走った。
「自分、普通に聞いてましたから」
何を、と問い返す前に、声は淡々と並べ始めた。
隣の部屋のドアが開く音。
夜遅くに帰ってきた気配。
テレビの音量が上がったり下がったりする感じ。
深夜、トイレに入るときの水の音。
「生活音ですよ。ずっと」
それが、亡くなってからの一週間の話だという。
知人は、その先を思い出すたび、喉の奥が乾くらしい。
電話口の相手は、取り乱してはいなかった。
怒りも、恐怖も、訴えもない。
ただ、自分が聞いていた音と、管理会社が告げた事実が、どうしても繋がらない。
その一点だけを、何度も確かめるように繰り返していた。
私は、そこで初めて、あの匂いを意識した。
酒場の中に、確かに存在していたはずの匂いが、急に別のものに変わった気がした。
廊下の、あの匂いに。
知人は、その電話を切ったあと、すぐに記録を洗い直したという。
死亡推定時刻、発見時の状況、警察からの報告。
どこを見返しても、数字は動かない。
亡くなってから発見まで、およそ一週間以上。
それでも、受話器越しの声が、耳から離れなかった。
「ずっと、聞いてましたから」
その言い方が、あまりに生活に根差していた。
幽霊だとか、怪しい音だとか、そういう言葉から最も遠い調子だった。
翌日、知人は現地に向かった。
正式な対応とは別に、隣室の住人と直接話をする必要があると感じたらしい。
自分でも理由ははっきりしなかったと言う。
ただ、電話だけで済ませてはいけない気がした。
件のアパートは、築年数の経った鉄筋造りだった。
外観は無難で、古さを誤魔化すように白い塗装がされている。
エントランスの自動ドアは少し反応が遅く、開くたびに低い唸り音を立てた。
廊下に入った瞬間、知人は足を止めた。
例の匂いは、すでに消臭処理で薄れていたが、それでも完全ではない。
鼻の奥に、重たいものが引っかかる。
孤独死があった部屋の前には、何も残っていなかった。
立ち入り禁止のテープも、警察の貼り紙もない。
ただ、ドアノブだけが、不自然に磨かれているように見えた。
その隣の部屋。
表札はなく、ドアは閉まっていた。
インターホンを押すと、すぐに応答があった。
声は、電話で聞いたのと同じだった。
年齢の判別がつかない、平坦な声。
ドアが開いた瞬間、知人は一歩引いたという。
相手は、拍子抜けするほど普通だった。
部屋着姿で、髪も整っている。
目に見えて疲弊している様子もない。
部屋の中も、生活感がきちんとあった。
脱ぎっぱなしのスリッパ。
テーブルの上の郵便物。
テレビは消えていたが、リモコンが手の届く位置に置かれている。
知人は、改めて説明した。
亡くなった日時の詳細は言えないこと。
だが、警察の見立てでは、発見まで一週間以上経っていたこと。
隣人は、黙って聞いていた。
途中で遮ることも、否定することもない。
ただ、頷く回数が、話が進むにつれて減っていった。
「……おかしいんです」
そう言ったとき、初めて、相手の視線が宙を彷徨った。
「自分、毎日帰りが遅いんですけど」
仕事の都合で、帰宅は深夜になることが多い。
その日も、いつも通り、日付が変わる頃に帰った。
「ドア、開いてましたよ」
正確には、鍵を回す音が聞こえた。
壁越しに、金属が擦れる感触が伝わってきた。
そのあと、テレビ。
ニュースか何か。
音量は小さく、内容までは分からないが、確かに人の声がしていた。
知人は、無意識に壁の厚みを想像した。
この建物は、防音が甘い。
隣の生活音が聞こえること自体は、珍しくない。
「それ、毎晩ですか」
問いかけると、隣人は首を振った。
「毎晩じゃない。でも……何回も」
具体的な回数を聞くと、曖昧に濁された。
数えていない。
数える必要がなかったから。
ある日は、トイレの水の音。
ある日は、咳払い。
ある日は、椅子を引くような音。
「一度だけ、声も聞こえました」
内容は聞き取れない。
独り言のような、短い音。
言葉というより、息に近い。
それが、亡くなってからの期間と、完全に重なっている。
知人は、そこで一つ、確認した。
警察が入った日、隣人は在宅していたか。
「いました」
救急車やパトカーの音も聞いた。
廊下のざわつきも分かった。
なのに、その時点でも、隣室が無人だとは思わなかったという。
「だって、その前の晩も……」
言葉が、そこで止まった。
前の晩。
警察が来る前の夜。
隣人は、いつものように帰宅し、いつものように風呂に入った。
湯船に浸かりながら、壁越しにテレビの音を聞いていた。
ニュースのテーマ曲。
それが終わって、別の番組に切り替わるタイミング。
「消えたんです」
突然、音が途切れた。
電源を切ったように、すぱりと。
知人は、その瞬間を想像して、背中に冷たい汗を感じたという。
生活音が止まること自体は、珍しくない。
だが、その止まり方が、あまりに綺麗だった。
「それで……初めて、変だなって」
翌日も、その次の日も、もう何も聞こえなかった。
そこでようやく、異臭騒ぎと、警察の介入が起きた。
知人は、部屋を出るとき、無意識に壁を見た。
薄いクロスの向こう側。
すでに空になっているはずの空間。
「自分が聞いてたの、何だったんでしょうね」
隣人は、そう言って笑った。
作り笑いでも、取り繕いでもない。
分からないことを、そのまま宙に置く笑い方だった。
廊下に出たとき、知人は、さっきより匂いが濃くなった気がしたという。
消えたはずの匂いが、時間を巻き戻したように。
そのとき、ふと気づいた。
孤独死の部屋と、隣の部屋。
間取りが、左右対称ではないことに。
壁の向こうにあるはずの位置に、どう考えても、トイレが重ならない。
知人は、管理会社に戻ってから、建物の図面を引っ張り出した。
紙が黄ばんだ、古い原本だった。
何度もコピーされ、角が丸くなっている。
例の部屋番号を指でなぞり、隣室との境を確認する。
壁は確かに一枚。
だが、設備の配置が、どうにも噛み合わない。
孤独死があった部屋のトイレは、玄関寄り。
一方、隣人の部屋のトイレは、奥側にある。
つまり、壁越しに水音が聞こえる位置ではない。
それだけではない。
テレビが置かれるであろう場所も、構造上、逆になる。
音が聞こえるとしたら、もっと籠もるはずだった。
「……おかしいな」
独り言が、事務所に落ちた。
知人は、念のため、警察の報告書も再確認した。
遺体の状況。
腐敗の進行。
死後経過日数。
どれも、揺るがない。
それなのに、一週間のあいだ、隣人は「生活」を聞いている。
翌週、知人はもう一度、あの部屋を訪れた。
今度は、誰にも告げずに。
業務というより、確認に近かった。
孤独死があった部屋は、すでに原状回復が始まっていた。
床材は剥がされ、壁紙も途中まで外されている。
空気が、むき出しだった。
作業員が帰ったあと、しんと静まり返った室内で、知人は立ち尽くした。
音が、まったくしない。
自分の呼吸音だけが、耳に返ってくる。
壁に手を当てた。
冷たく、硬い。
向こう側には、あの隣人の部屋がある。
そのときだった。
微かに、音がした。
耳鳴りかと思った。
だが、違う。
一定の間隔で、何かが動く気配。
ごと……ごと……。
椅子を引くような、鈍い音。
それから、かすかな電子音。
知人は、思わず息を止めた。
作業員はいない。
電気も通っていない。
それでも、音は続いた。
テレビの音声ではない。
番組でもない。
ただ、人の気配に似た、雑音。
数十秒で、それは止んだ。
知人は、その場を逃げるように出た。
廊下に出た瞬間、あの匂いが、また鼻を突いた。
処理したはずの匂い。
時間を越えて戻ってくる匂い。
数日後、隣人から再び連絡があった。
今度は、引っ越しの報告だった。
「もう、聞こえないんで」
淡々とした声だった。
理由も聞かれなかった。
知人も、聞かなかった。
退去手続きが終わり、部屋は空になった。
その後、問題は起きていない。
少なくとも、表には。
知人は、最後にぽつりと言った。
「孤独死って、独りで死ぬって書くでしょ」
私は、黙って頷いた。
「でもさ……」
グラスの縁を、指でなぞりながら。
「一週間、隣で生活してた人がいたなら、それは本当に独りだったのかなって」
その言葉が、胸に残った。
生活音とは、存在の証明だ。
誰かが、そこにいるという合図。
無意識に、私たちはそれを頼りにしている。
もし、音だけが残るとしたら。
誰にも気づかれずに死んだはずの人間が、
誰かに「生きている」と思われ続けていたとしたら。
あの隣人が聞いていたのは、死後の残響だったのか。
それとも、
生きていると思い込むことで、壁の向こうに人を作り出していたのか。
あるいは――。
管理会社の記録には、こう残っている。
「異常なし。対応完了」
だが、知人は今でも、夜中にテレビの音を聞くと、ふと考えるという。
それが、本当に、
今この瞬間の音なのかどうかを。
(了)
[出典:711 :本当にあった怖い名無し:2019/09/30(月) 14:14:09.26 ID:241MUtrr0.net]