東京都から山梨に抜ける道に、和田峠という峠がある。
知人のおばさん夫婦は、釣りが好きでよく夜道を走っていた。夫は運転が上手く、山道にも慣れている。おばさんはいつも助手席で景色を眺めていたが、和田峠だけは昔から好きになれなかった。
東京側から山梨へ向かうときはまだ平気だが、帰り道になると理由のない不安が込み上げてくる。窓を少しでも開けていると、外から何かが入ってきそうな気がして、必ず閉めてしまうのだという。
その日も山梨で釣りを終え、深夜に和田峠を越えることになった。車のライトが照らすのは黒い木々と細い道だけで、対向車も後続車もいない。
「ああ、もうすぐ峠だね」
何気なく外を見た瞬間、おばさんは木々の間に青っぽい光が揺れているのに気づいた。点滅するような、淡い光だった。
最初は誰かが懐中電灯を持って歩いているのだと思った。しかし車は進んでいるのに、光はずっと同じ距離にあり、近づきもしなければ離れもしない。
「ねえ、お父さん、あの光。釣り人かな」
そう声をかけると、夫は前を見たまま短く言った。
「見えてる。でも、人の明かりじゃない」
その言い方が妙に落ち着いていて、逆に怖くなった。その直後、おばさんは異変に気づく。青い光が増えている。ひとつだったはずの光が、いつの間にか二つ、三つと増え、道路の前後や斜面の奥にまで散らばっている。
車を囲むように、じわじわと近づいてくる。
「早く、スピード上げて」
おばさんは思わず叫び、目を閉じた。窓はすべて閉まっているはずなのに、冷たい気配だけが車内に満ちていく気がした。エンジン音とタイヤの音だけがやけに遠く感じられる。
どれくらい走ったのかわからない。時間の感覚が曖昧になり、ただ「まだなのか」と思い続けていた。
やがて車が下り坂に入った。その瞬間、おばさんははっきりと「越えた」と感じた。理由はないが、そう確信できた。
恐る恐る目を開けると、周囲は見慣れた東京側の山道だった。青い光はどこにもなく、闇の中に木々が立っているだけだった。
安堵した途端、全身から汗が噴き出していることに気づいた。息を整えながら、何気なく窓の方を見る。
すべての窓は、最初から最後まで閉まったままだった。
それなのに、助手席の足元だけが濡れていた。雨水のように、靴の先までじっとりと冷たい。
「さっき、窓……開けたかしら」
震える声で聞くと、夫は首を横に振った。
「開けてない。最初から閉めてた」
それきり、夫は和田峠の話を一切しなくなった。あの夜のことを聞こうとすると、必ず話題を変える。
おばさんは今でも、あの青い光を思い出すという。生き物のように増え、車を追い、峠を越えた瞬間に消えた光。
そして、閉め切ったはずの車内に、確かに残っていた冷たさのことを。
(了)
[出典:2014/09/13(土) 09:14:01.00 ID:MGmxOAvG0.net]