俺が高野山に住んでいた頃、妙な噂を耳にした。
昔、坊主専用の廓が山のどこかにあったという話だ。戦後に取り壊されて廃墟になったが、今もその姿は残っている。近づいた者は正気では帰ってこられない。何が出るかはわからない。
当時寮生活をしていた俺は、夏の休日、後輩を無理やり連れ出して山に入った。場所など分かるはずもない。半分は冷やかしで、ピクニック気分だった。
だが、高野山の山中は容赦がない。どこも似たような木立ばかりで、獣道を選んでいるうちに、あっという間に現在地が分からなくなった。帰り道どころか、どの山にいるのかも分からない。
進めば進むほど、山がこちらを閉じ込めようとしている感覚が強くなった。日が傾き始め、誰かが「迷ったら尾根に出ろ」と言った。根拠の薄い知識だが、立ち止まるよりはましだった。
必死に登り、ようやく尾根らしき場所に出た。遠くに大きな町が見え、反対側には小さな集落が見えた。奈良か、九度山か。推測はできても、確信は持てない。
空腹と喉の渇きで意識が鈍り始めた頃、後輩の一人が叫んだ。
「水の音がします」
確かに、かすかだが流れる音がした。湿った匂いもある。俺たちは音を頼りに、斜面を下った。
藪を抜けた先で視界が開け、川が現れた。幅は五、六メートルほど。俺たちは助かったと思った。
靴を脱ぐ者、水を汲もうとする者。俺も手を伸ばしかけて、ふと川底を見た。
岩が赤い。
異様なほど、均一に、上流まで続く赤だった。土の色ではない。苔でもない。濡れているせいでもなかった。
「待て」
思わず声が出た。全員が動きを止め、川底を覗き込んだ。
誰かが呟いた。「丹じゃないですか」
授業で聞いたことがある。昔、万能薬と呼ばれたが、実際は毒でしかない赤い鉱物。高野山から運ばれたとも言われている。
そう聞いた瞬間、納得した気がした。だが、同時に違和感もあった。
赤さが鮮やかすぎる。川の流れで薄まるはずなのに、どこまでも同じ濃さだ。しかも、水面には赤が一切映っていない。底だけが赤い。
後輩の一人が、ぼそりと言った。
「丹って、こんな色でしたっけ」
誰も答えなかった。知っているはずなのに、誰も自信がなかった。
上流を見ると、赤はさらに濃くなっているように見えた。だが、誰も遡ろうとは言わなかった。理由を口に出す者もいなかった。
俺たちは川を下った。山歩きの常識では最悪の選択だが、その時はそれしか考えられなかった。
二時間ほどで、小さな集落に出た。畑と古い家が数軒あるだけの場所だった。農家の老人が事情を聞き、軽トラで駅まで送ってくれた。
礼を言うと、老人は一瞬、首を傾げた。
「川か。ああ……赤いのは、見たらいかんよ」
それ以上は何も言わなかった。
数週間後、改めて礼をしに集落を訪ねた。だが、家はすべて無人で、畑も荒れ、道は草に埋もれていた。人が住んでいた形跡は、まだ新しいのに、誰もいなかった。
赤い川を探そうとしたが、どれだけ歩いても見つからなかった。地図にも、それらしい支流は載っていない。
後日、別の後輩に聞くと、あの日の川は赤くなかったと言う者がいた。普通の山の沢で、俺が騒ぎすぎただけだと。
だが、俺の靴底には、今でもうっすらと赤い染みが残っている。
(了)