岩手には隠し念仏というのがある。
10 :2009/12/09(水) 23:29:01 ID:xTkHBC6G0
これはその昔、親鸞二十四徒の一人である是信房が広めた念仏と、真言密教系の秘術が融合したものらしく、かつて岩手県で爆発的に流行した。
この念仏はいわば即身仏となるための儀式とも呼べるものであり、かつて生きるのが困難だった時代何とかして仏の加護を受けたいという欲求から創始されたものだと考えられる。
もっとも、これは寺や坊主を間に挟まない、いわば秘密結社的、呪術的性格を色濃く持ったものだったので「犬切支丹」と言われて幕府から迫害され、明治政府からも「公序良俗を乱す」として弾圧された。
で、肝心の儀式であるが、まず生まれたばかりの赤子が善知識と呼ばれる総長の家に連れて行かれ簡単な念仏を唱えられた後、経文で頭をなでられる。
この簡単な儀式が「オトリアゲ」と呼ばれる。
で、隠し念仏で一番大切なのが「オトモヅケ」と呼ばれる儀式である。
歳の頃七~十五歳ぐらいになった子供は、夜半、善知識(ぜんちしき)のもとに秘密裏に連れて行かれ親鸞と蓮如上人、薬師如来の掛け軸が飾られた仏壇の前に正座させられる。
そして、指を金剛合掌の形に組み、「タスケタマエー」と言いながら思い切り息を吐くように言われる。
これは善知識が「よし」というまで何度も何度も続けられる。
この間、善知識はこのものが本当に念仏組に入ることができるか、仏の加護を受けられるかを精査するという。
これを何度も繰り返し、善知識が「助けた!」と言うと、子供は口を手のひらで押さえられ、平伏させられる。
こうして「オトモヅケ」は終わり、隠し念仏最大の儀式は終了、この子は晴れて念仏組の一員となる。
このとき、子供は善知識から
「これはホトケ様が口から入ったからな。人に言ってはダメだぞ」
とクギを刺されるので隠し念仏の全容はよく調査されないまま、現在ではすっかり廃れてしまい、もはやどこでも行われていないだろう。
ちなみに俺の父方、母方の祖母、父は両方隠し念仏を受けている。
戦後直後までは普通にやってたらしい。
父はいまだに口を割らないが、ばあちゃんは嫁に行った身なので喋っても問題ないらしい。
ちなみに発言小町で話題になった『真っ黒い手紙』にあるのは単なる百万遍念仏なので隠し念仏とは違う。
さらに「隠し念仏の一派に邪教がある」という話は誤りなので信用しないこと。
隠し念仏は岩手を中心に伝わる民俗宗教で、長い間秘密裏に行われてきたためになかなか実態が掴めなかった。
しかし宗教というより、この近在ではもう単なる仏事の際の慣習となってしまっている。
似たようなものが九州にも残されていて、そちらは「隠れ念仏」と呼ぶそうだ。
どちらも浄土真宗に起源を求めることができるが、成り立ちは若干異なる。
私が初めてこの念仏の輪に加わったのはもう二年ほど前だ。
同じ班内のお婆さんが亡くなって通夜、葬儀を済ませた後に、誰からともなく「お念仏やんべ……」と黒い木箱が担ぎ込まれ、中から大きな数珠が取り出された。
長さ二〇メートルの巨大な数珠。
小ぶりな里芋ほどの大きさの不揃いな数珠玉の中に、ひとつだけ握りこぶし大の玉がある。紐は麻縄、使い込まれた木の数珠は手アブラでてらてらと黒光りしている。
「おっと、その前に、おめ、このせんべいで大の字を作ってけろや」
私は言われるままに四九枚のせんべいを畳に並べて『大』の字を描いた。
「……んむ。そんなもんだべ。昔ぁ餅使ったんだがな。今時ぁ、せんべいになっちまった」
さて木枠を組み立てて鉦を吊るし、用意は整った。
一同座敷いっぱいに広がって車座に坐る。皆手に大数珠の一端を持っている。その人垣を割ってジッちゃんが歩み出た。
「数珠をまたいじゃなんねえ。中に入る時は、こうしてくぐって入るもんだ」
独り言を言いながら持ち上げた数珠をくぐり、ジッちゃんはひとり座の中央に坐した。
おもむろに、読経と鉦の音でお念仏は始まった。
迷故三界城 悟故十方空 本来無東西
何処有南北
願以此功徳 平等施一切 同発菩提心
往生安楽国 南無阿弥陀ー
若かりし日から謡い、笛、神楽、鹿躍りと部落の行事や活動を中心になって支えて来たジッちゃんの渋い声が独特の調子を紡ぎだす。
最後の南無阿弥陀ん仏ーを唱和しながら、皆は一斉に数珠を回した。
念仏を繰り返しながら何度も何度も際限なく。
ひと際大きい数珠玉が手元に来た時には、それを額に押し頂いて念を込めるのが決まりごとのようだ。
最初はなんだかわけのわからない文句で始まったが、次のフレーズから念仏は平易でわかりやすくなる。
これがお坊さんを呼んでする普通の葬式と違うところだ。
親を念じる輩は 現在後生良きと聞く
弥陀願以此功徳 平等施一切 同発菩提心
往生安楽国 南無阿弥陀ー
「隠し念仏」は元々「通り名」であって本来の名前ではない。
正式には「浄土真宗御内法」または単に「御内法」と言う。
これはいわゆる寺を通して伝える「表法」に対しての「内法」の意である。
その起源については各流派さまざまな説を持っていて、今となってはいったいどれが本当なのか誰もわからない。
しかしながらどの派にも共通な「最大公約数」的なものもある。
例えばそのひとつとして、御内法は親鸞上人またはその高弟たちや、彼らが法義を託した門徒によって立てられたということだ。
つまりこれは元々浄土真宗の一分派的、または「裏」的存在であったらしい。
これは「真の宗教は職業化した僧によって伝えられるべきではなく、純真な俗人によって伝えられ信ぜられるべき」という上人の教えをその端としている。
中世このようにして始まった御内法ではあったが、当の浄土真宗ではこれを認めていない。
所詮「表法」と「内法」は相容れないのだ。
またもうひとつの各派に共通な特徴として、その作法や形式に真言密教の影響が伺えることだ。
というよりか、元々真言念仏だったものが、入門の一方便上表面的に浄土真宗の形式を用いたのだろうとする解釈もある。
三体一位の御真影として弘法大師・覚鑁(かくばん)・親鸞を御安置すること、用いられている密教教典、また即身成仏を目的とした秘儀や印を結ぶ仕草など、そのどれを取り上げても弘法大師の流れを汲んでいることは否定できない。
つまり岩手に伝わる「隠し念仏」とは、どういう状況下でかそれら浄土真宗御内法、真言密教、また後に述べる百万遍念仏や他の土着信仰などが習合してできあがったひとつの在家宗教のようである。
天竺の嵐が池の蓮の葉一枚
申しおろして新米包んで今日の
お仏に手向け給うやと
弥陀願以此功徳 平等施一切 同発菩提心
往生安楽国 南無阿弥陀ー
ところで親鸞二十四輩の一人「是信房(ぜしんぼう)」は弥陀念仏による教化を志して岩手に移り住み、この地で亡くなっている。
その布教のやり方は始めから在家仏教の確立を意図して、その土地ごとの族長の家に名号の軸や祭祀権を与えて「仏別当」としての役を任じたことにある。
中世に始まったこの「寺を通さない」体制は、17世紀に寺檀制度ができるまで公然と行われたそうだ。
そして幕府によって禁令となったそれ以降も、「まいりの仏」などに姿を変えて、民衆の地下深く潜伏しながら命脈を保ってきた。
さてそのような宗教習慣上の下地がある上に、現在の形に直結する隠し念仏が改めてこの岩手の地に伝えられたのは江戸時代中頃。
京都の鍵屋(御内法の総本家。親鸞の弟子の蓮如が明応6年に上人直筆のお経と同じく自作の上人像を与え、法義を伝えたという。)にて付属を受け、御真影を授けられた伊達水沢家中・山崎杢左衛門(もくざえもん)が導師として活動を始めた宝暦4年(1753年)前後と思われる。
以来御内法はみちのくの地に爆発的に広まった。それがどういう社会的条件によるものかは、勉強不足で私も今ひとつわからない。
しかし現在「隠し念仏」と言われるものが近県を含めた岩手全土にくまなく痕跡を留めていることでもそれは伺える。
そうなると面白くないのは浄土真宗である。
西本願寺は幕府に提訴し、同時に在野に密偵を放つなどして、同じ親から出た腹違いの子を徹底的に弾圧し出した。
その結果、山崎杢左衛門はその翌年に同志たちとともに磔刑に処せられ死んでしまう。
そして、かつて「隠れキリシタン」を弾圧した地仙台藩では、御内法を「犬切支丹」「秘事法門」「外道邪法」などと呼んでキリスト教に継ぐ厳しさで取り締まるようになった。
しかし皮肉なことにその厳しい弾圧があったればこそ、この秘密宗教はより深くに潜伏し偽装し民俗化して、今日まで「隠し念仏」として生き残ったのである。
それ以降「御内法」はどんどん変化していった。
なにしろ当局や寺の目から隠れながら秘事を続けているのである。
当然正しい教えを授ける正式な導師もおらず、分派も更に細分化し、ただ各在に分散・孤立しながら口承口伝によって何百年もの長きに亙り伝えられていった。これでは変容しないわけがない。
実際わがムラに伝わる隠し念仏も、もうほとんど本来の態をなしてはいない。
念仏中の枢要な秘儀である「オトリアゲ」や「オモトズケ」は既に失われ、唯一残った「ネンブツモウシ」が別途行われていた在家講や百万遍念仏と習合して、今の形として伝えられたものらしい。
「百万遍念仏」とは、京都の浄土宗知恩院の念仏行事に因むもので、昔知恩院八代空円が百万遍の念仏を唱えて流行病を平癒したにより、後醍醐天皇から大数珠を賜ったことを発端とする。
岩手県に限らず広く全国的に行われていた念仏信仰である。
また念仏の内容も口伝・筆写を重ねるうちにオリジナルとは随分違ったものとなってしまった。
例えばこんなくだりがある。
梅若は母に対面なさんとて
亡者の姿現れてひらりくるりんと駆け巡れば
母はその由ご覧じて抱きつかんとせしがごとくに失せ給うや
弥陀願以此功徳 平等施一切 同発菩提心
往生安楽国 南無阿弥陀ー
これなど、内容的には15世紀、世阿弥の息子の元雅の作である能「隅田川」を題材としている。
この部分は元々同一の念仏集団であった隣り部落のお念仏には無いので、もしかしたらこの部落の継承者の誰かが勝手に挿入した文句なのかもしれない。
二百年余の年月は習慣や伝承が変成するに充分な期間なのだ。
さて、わがムラに伝わる隠し念仏の仏具の箱書きには「寛政6年」(1794年)とある。
これから推すに岩手に初めて御内法が伝えられた1753年から僅か40年余り。
おそらくはこの部落に隠し念仏が伝わって作られた最初の箱であり、数珠も各種小道具もその当時からそれほど離れてないものがそのまま使われている可能性が高い。
……と、人に訊いたり図書館に通い詰めてわかった「隠し念仏」についての情報を話したら、ジッちゃんは目を丸くした。
「そんなに由緒あるものだったのか!?するとこの箱ぁ、部落の宝じゃあ」
ジッちゃんにして先代から受け継ぎ、伝承してきた仏事の由来を初めて知ったそうだ。
それまでは「隠し念仏」という名前の意味さえもわからないでいた。
もっとも今のご時世では、とうに隠す理由も何もないのだが。
しかしこのお念仏、わがムラにはもはやジッちゃんしか唱えられる人はいない。
またこの習慣自体も今となれば必ずやるものでもなくなってしまっている。
ただでさえ慌しい仏事の際に、更に面倒くさいセレモニーをしようという家は、段々少なくなってしまった。
ジッちゃん、もしジッちゃんが死んでしまったら、この隠し念仏も無くなるんですね……
「おめえ……覚えっか?教えッぞ」
「……でも、覚えたって、やる機会があるかどうか……」
せっかく見つけたわがムラの宝「隠し念仏」も、現在八十一歳のジッちゃんとともに在る。つまりは風前の灯ということである。
[出典:http://blog.goo.ne.jp/agrico1/e/71d917403262d0a4508a3f1f17823038]
(了)