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知り合いから聞いた、昭和の終わり頃に起きたという近所の大学生の話。
まだファミコンが出たばかりで、四角いゴムのボタンがついた初期型が出回り始めた頃。ゲームはまだ特別なもので、子供たちにとっては憧れの存在だった。
話に登場するのは、小学三年生の慎平と、彼の家の裏手に住んでいた大学生。木造の古びた文化住宅に一人暮らししていたその青年は、地元の大学に通う伊藤さんという男で、眼鏡をかけた優しげな人物だった。
ある日、慎平の母が「算数を教えてくれないか」と頼んだのがきっかけで、伊藤さんは家庭教師として週に二度、慎平の家に通うようになった。教えるというよりは、話し相手や遊び相手のような存在で、やがて「伊藤さんがファミコンを持っているらしい」という話で子供たちの間ではちょっとした人気者になった。
数日後、伊藤さんの部屋に招かれた慎平とその友達二人ほどが初めて足を踏み入れた。そこは畳敷きの六畳一間、カーテンは閉め切られ、雑誌と教科書が散らばった中に、テレビとファミコンがぽつんと置かれていた。
それだけで子供たちは大はしゃぎだった。順番にコントローラーを握りしめ、マリオに夢中になり、伊藤さんも穏やかな笑顔でその輪の中にいた。
そんな日々が半年ほど続いたある日、雰囲気が一変した。
慎平たちが訪れても、伊藤さんは部屋の隅の黒電話の前に座り、何度もダイヤルを回しては無言で受話器を耳に当てていた。誰かと話している様子もなく、ただじっと沈黙している。
「誰と話してるの?」と尋ねても、伊藤さんは微かに笑みを浮かべただけで、何も答えなかった。
子供たちはその光景に言葉にできない不気味さを覚え、徐々に伊藤さんのもとを訪れなくなった。そして、伊藤さんも大学が忙しいと家庭教師を辞退し、それきり姿を見かけることも少なくなった。
時が過ぎたある晩、慎平の家の茶の間に叫び声が響いた。
ニュース番組に映ったのは、伊藤さんだった。うつむき加減で警察に連行される姿とともに、「都内での女性殺害事件で、容疑者は以前交際していた女性に対し、執拗なつきまとい行為をしていた」との報道が流れた。
慎平は言葉を失った。思い返せば、あの電話。あの無言の行動。
後に分かったことだが、伊藤さんは恋人に一方的に別れを告げられた後、毎晩のように無言電話をかけ続け、彼女の周囲をうろついていたという。そしてある日、彼女の帰宅を待ち伏せ、犯行に及んだ。
あのとき電話の前で繰り返されていたのは、まさにその無言電話だった。
ファミコンに夢中になる子供たちの背後で、伊藤さんは静かに自分の世界の中で壊れていっていたのだ。
慎平は今でも電話のベル音を聞くと身がすくむという。そして、ファミコンの電子音を耳にすると、あの暗い六畳一間の空気が胸に蘇るらしい。
思い出すのだ。ゲームと沈黙が同居していたあの空間を。
あのとき誰かが気づけていれば──
けれど、何もできなかった。
あの兄ちゃんは、あの時すでに、誰の声にも届かない場所にいたのだから。
(了)
[出典:http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/occult/1122520059]
※読者さまのご指摘によりリライトしました。2025年06月15日(日)
《原文》
知り合いに聞いた近所の大学生の話。
まだファミコンが出たばかりの頃のことらしい。コントローラーに四角いゴムのボタンがついてた、初期のあれだ。カセットも高くて、どこの家にでもあるものじゃなかった時代。
その同級生、仮に慎平としておくが、当時小学三年生だったそうで、放課後はだいたい近所の路地でベーゴマやゴム段をして過ごしていたらしい。そんな彼の家の裏手に、一人暮らしの大学生が住んでいた。木造二階建ての古い文化住宅、庭には錆びかけた自転車がいつも倒れていたという。
大学生は地元の国立大に通っていたらしく、眼鏡をかけた温和な青年だったそうだ。名は伊藤さん、とだけ聞いている。やせ形で、話し方がゆっくりしていて、近所のおばちゃんたちからの評判もよかったとか。
ある日、慎平の母親が「算数を見てもらえないか」と頼んで、家庭教師をお願いしたのがきっかけだった。伊藤さんは快く引き受けて、週に二回、慎平の家に通ってきた。授業というほど堅苦しいものではなかったらしく、気がつけば問題そっちのけで、伊藤さんがファミコンを持っているという話題に夢中になったらしい。
そして数日後、伊藤さんの部屋に誘われた。初めて訪れたその部屋は、質素な六畳一間。畳には雑誌と教科書が散乱し、窓のカーテンは昼間でも閉じられたまま。だが部屋の隅にファミコンがあった。それだけで少年たちは天にも昇る気持ちだったという。
慎平を含めて、近所の子どもが二、三人。順番にコントローラーを握りしめ、マリオやドンキーコングに熱中した。伊藤さんも笑っていた。子どもたちの間に座り、時にアドバイスをくれ、時に一緒になって遊んだ。優しい兄ちゃん、そんな印象しかなかったという。
その状態が半年ほど続いた。
妙なことが起きたのは、それからだった。ある日を境に、伊藤さんの様子が変わったのだ。
いつものように遊びに行った慎平たちをよそに、伊藤さんは部屋の隅の黒電話に向かい、ずっとダイヤルを回していた。ひとつ、ふたつ、みっつ……ジーコ、ジーコと音を立てて数字をなぞる。そして受話器を耳に当てたまま、じっと沈黙。
喋らない。何分経っても、ただ静かに黙っている。
やがてカチリと音がして、受話器を置く。またすぐにダイヤルを回す。これを延々と繰り返すのだった。
「誰と話してるの?」
慎平がそう聞いたことがあったという。伊藤さんは少し笑ったような顔をしたが、何も答えなかった。ただ、その眼の奥がどこか乾いていた。笑っているのに、感情が感じられなかった、と慎平は言った。
そんな日が何度も続き、子どもたちは次第に足を運ばなくなった。怖い、という感情だった。理由はうまく言えない。だがあの沈黙の電話の光景が、どこか不吉だった。
そして、タイミングを合わせたかのように、家庭教師も終わった。大学が忙しくなった、そう母親に連絡があったらしい。
その後は、誰も伊藤さんの話をしなくなった。半年、いや一年近くが過ぎて、彼の存在は地域から徐々に薄れていった。
ある晩のことだった。
慎平の母親が突然叫び声をあげた。夕食の最中、茶の間のテレビで放送されていたニュースを見てのことだった。
画面に映っていたのは伊藤さんだった。白いマスクを外され、うつむき加減で警察に囲まれている。キャスターが読み上げていた内容はこうだった。
「被害女性は都内在住の大学生。容疑者との交際歴があり、ストーカー行為を受けていたとの証言が……」
思わず箸を落とした、と慎平は語った。あの優しかった兄ちゃんが、人を殺した。信じられない、けれども、思い返すと心当たりはあった。
あの電話。
受話器の向こうで、誰かが出るのを待っていた。だが何も言わない。喋らない。黙ったまま、耳元の息遣いだけを伝える。
それが一度や二度なら、悪ふざけの範疇だったのかもしれない。けれど、あれほどの執拗さで、毎日のように、何時間も……。
後に裁判記録で知ったらしい。伊藤さんは、当時交際していた女性に振られてから、彼女の家の周囲をうろついたり、無言電話を繰り返していたという。やがてエスカレートし、ついには彼女の帰宅途中を待ち伏せ、犯行に至った。
あれは、無言電話だったのだ。
子どもたちの目の前で、ゲームのすぐ隣で、彼は一人きりの復讐劇を続けていた。
慎平はその後、しばらく電話のベル音を聞くだけで震えるようになったという。
今でも、ファミコンの初期音──あのタイトル画面のピコピコした電子音を聞くと、何とも言えない不安な気持ちに襲われるらしい。
思い出すのだ。カーテンを閉め切った六畳一間の部屋と、黒電話の前に座る伊藤さんの後ろ姿を。
……あの時、誰かが止めていれば、と。
けれど、もう遅い。もう、何もできない。
あの兄ちゃんは、ずっと昔に、あの沈黙の電話の向こう側で、完全に壊れていたのだから。