電力会社に入社した年の新人研修で、今でも忘れられない出来事がある。
研修内容の一つに、その会社が最初に手がけた水力発電所を見学するという行程が組まれていた。創業史の象徴のような施設で、社史やパンフレットでは必ず美談として紹介される場所だ。山深い土地にあり、最寄りの集落からもかなり離れている。バスはすれ違いも難しい細い道を、谷を見下ろしながらゆっくりと進んでいった。
移動中、引率の先輩社員が注意事項を説明した。足元に気をつけろ、立入禁止区域には近づくな、といったごく普通の内容が続いたあと、少しだけ声の調子を変えてこう言った。
「それから、ダム内部では絶対に写真を撮るな。外観も必要以上に撮らないこと。これは規則だから」
理由の説明はなかった。質問する空気でもなかったので、誰も深掘りしなかった。ただ、妙に断定的な言い方だけが耳に残った。
ダムは想像以上に巨大で、内部は薄暗く、コンクリートの壁が湿気を含んで冷たかった。通路は狭く、ヘルメットをかぶった先輩の背中を見失わないように一列で進む。水の流れる低い音が常に響いていて、声を出すと少し遅れて返ってくる。
複数班に分かれて見学していたため、途中から別の班のざわめきが聞こえてきた。小声だが、明らかに見学とは無関係な興奮が混じっている。直後、引率の先輩が舌打ちをして、その班のほうへ向かった。
原因はすぐに分かった。同期の一人、Aが内部で写真を撮っていたのだ。しかも、ただ撮っただけではなく、スマートフォンの画面を周囲に見せながら「これ、やばくないか」と騒いでいたらしい。
先輩は激しく叱責し、その場でデータを消去させた。理由は相変わらず「規則だから」の一言だった。心霊写真だの何だの言い出したAは、顔色を変えて黙り込んだ。
見学後、バスで戻る途中、同じ班だった同期から小声で話を聞いた。写真を直接見せてもらったわけではないが、画面を覗き込んだ何人かの話が一致していた。
写真には、先導して歩いていた先輩社員の背中が写っていた。その背中を、三本の右手が掴んでいたという。肩口から一つ、腰のあたりから一つ、そして首の後ろからもう一つ。どれも人間の手と同じ大きさで、色もはっきりしていたそうだ。顔や体は写っていなかった。手だけが、確かにそこにあった。
その話を聞いたとき、冗談だろうと思った。研修中の緊張と非日常で、見間違えたか、盛っているのだろうと。だが、騒いでいたAがその後一切この話をしなくなったのが、逆に気味が悪かった。
入社して数年が経ち、現場配属になった頃、酒の席でその話を思い出してベテラン社員に振ってみたことがある。すると、その人は少し考えるそぶりを見せたあと、「だろうな」とだけ言った。
詳しく聞こうとすると、それ以上は話したがらなかった。ただ、ぽつりとこう付け加えた。
「あそこはな、最初に作った発電所だ。今みたいな安全基準が整う前の話だぞ」
それきり話題は変わった。
その後、別の先輩や、別部署の人間から断片的な話を聞いた。内容はまちまちで、どれもはっきりした証拠はない。ただ共通しているのは、あのダムの建設現場では「声が急に途切れる」ことがあったという話だった。作業の合図を出していた声が、途中で消える。誰も返事をしない。だが工事は止まらない。
写真撮影禁止の規則は、今も変わらず続いている。理由は公式には「防災上の配慮」や「機密保持」だ。だが、外観写真は社史にも載っているし、見学記念に撮影できる施設も他にはある。
あのとき、先輩がなぜ内部だけを強く禁じたのか。なぜ写真を撮ったAが、あれほど青ざめたのか。なぜ、あの背中を掴む手は三本とも右手だったのか。
そして、なぜ今も、あのダムでは写真を撮らせないのか。
あの先輩社員は、確かに前を歩いていた。だが、あの瞬間、本当に一人だったのかどうかを、誰も確認していない。
今でも会社の研修資料には、あの発電所は「当社の原点」と書かれている。だが、原点が完成した瞬間に、工事が本当に終わったのかどうかは、どこにも記されていない。
[出典:792 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/07/15(土) 09:30:55.02 ID:ad+IaNn+0.net]