これは、私が京都で大学生活を送っていた頃に体験した出来事である。
当時、私はバンド活動に傾倒しており、週末の夜にはバンドメンバーとともにスタジオにこもり、演奏の精度を高めることに注力していた。
その日の練習が終了したのは深夜一時。京都特有の湿気を帯びた夏の空気が、肌にまとわりつくように感じられた。
スタジオは自宅から距離があり、通常であればバスを利用して帰宅するのだが、その時間にはすでに運行が終了していたため、やむを得ずタクシーを利用することにした。
背中のギターケースを下ろしながら、「また余計な出費がかさむ……。次のライブのノルマも厳しいというのに」と嘆きつつ、タクシーへと乗り込んだ。
運転手は五〇代ほどの、ごく普通の男性だった。
車内は冷房が強めに効いており、汗ばむ身体には心地よかったことを今でも記憶している。
「〇〇通りまでお願いします」
行き先を告げると、運転手は気さくに話しかけてきた。
「〇〇通りに住んでるってことは、〇大の学生さん?」
「はい、そうです」
「あの近くにボウリング場がありますよね? 私、ボウリングが好きでねぇ。社内のボウリング大会でも、結構上位に食い込んだんですよ」
「そうなんですね」
正直、練習後の疲労感から会話に積極的に関与する気力はなかった。しかし、ミラー越しに映る運転手の表情は笑顔を浮かべており、話し好きな人物なのだろうと思い、適度に相槌を打っていた。
だが、次第に奇妙な違和感を覚えるようになった。
私の返答と関係のない話題が唐突に出てきたり、会話の脈絡が不自然に飛躍したりするのだ。
「こういう話し方をする人もいるだろう……」
最初はそう気にも留めなかったが、次の瞬間、
「……ところで、〇〇通りに住んでるってことは、〇大の学生さん?」
「え?」
まるで初めて尋ねるかのように、先ほどと同じ質問を繰り返してきた。
「ボウリング場がありますよね? 私、好きなんですよ。こう見えても結構上手なんですよ」
「……」
「〇大の学生さんっておっしゃいましたよね?」
「ええ……」
「ボウリング場の近くですよね? いいですねぇ。実は私、ボウリングが趣味でして」
「……あの……」
「〇〇通りの近くは住みやすいでしょう? あっ、〇大の学生さんですよね?」
「……」
「ボウリング場があるでしょう? 私、ボウリングが好きでねぇ。社内のボウリング大会でも結構いいところまで行ったんですよ」
「〇大の学生さんっておっしゃいましたよねぇ?」
会話が、同じ内容を反復する奇妙なループに陥った。
運転手はそれなりの年齢に見えるものの、認知機能の低下を疑うには不自然なほど整然としている。しかし、単なる記憶の混乱とは異なる、底知れぬ不気味さがあった。
私の曖昧な応答を意に介さず、運転手はひたすら同じ話を続ける。
真夜中の密閉された車内。重苦しい沈黙と、冷房の冷気が皮膚を刺すようだった。
そして——
突如、会話が途絶えた。
「終わったのか……?」
そう思った刹那、
ドンッ!!
車内に突如として衝撃音が響いた。
驚いて視線を向けると、運転手が左足を強く床に叩きつけていた。
それも一度ではなく、何度も何度も。
ドン! ドン! ドン!
「あああああああああああああああああ!!」
次の瞬間、うめき声とも叫び声ともつかぬ奇声を発し、足を激しく上下させ始めた。
車全体が揺れるほどの動作。
「な、なんなんだ……!? 何か気に障ることを言ったか!? それとも、この人は……?」
恐怖と混乱の中、身を硬直させることしかできなかった。
そして、
「お客さぁん、〇〇通りに住んでるってことは、〇大の学生さん?」
また、あの質問。
激しく揺れる車内、変わらぬ笑顔。
この瞬間、私は明確な恐怖を感じた。
自分の生命が、この異常な運転手に委ねられている。
それを意識したときの恐怖は、今でも忘れることができない。
しかも、車の進行方向が明らかに目的地とは異なるものへと変わっていった。
もう限界だった。
「……お、おろしてください! ここで、ここで大丈夫です!」
すると、意外にも運転手は落ち着いた口調で、
「あれ、そうかい? ここじゃ遠くないかい?」
と言いながら、車を脇に寄せた。
「話し相手になってもらっちゃって、ごめんね~」
先ほどまでの異様な様子が嘘のような、あまりに自然な対応。
私は恐怖と困惑の狭間で、ただ一刻も早く車を降りたいという一心だった。
料金を払い、ギターケースをつかんで車を降りようとしたその瞬間——
「……お客さぁん、もしかして〇大の学生さん?」
変わらぬ笑顔。
あの運転手は、今も京都の夜を走り続けているのだろうか。
(了)
58: 本当にあった怖い名無し 2015/05/23(土) 18:30:38.27 ID:xoXqerud0.net