その夜、私は終電を逃した。
スタジオを出たのは一時を過ぎていた。湿った夜気が肺の奥にまとわりつく。背中のギターケースが重く、思考も鈍い。仕方なく流しのタクシーを拾った。
「〇〇通りまで」
運転手は五十代くらいの男だった。白い手袋をはめ、ミラー越しに穏やかな笑みを向ける。
「〇〇通りに住んでるってことは、〇大の学生さん?」
「はい」
「近くにボウリング場がありますよね。私、あそこ好きでしてね」
ありふれた世間話だった。私は曖昧に相槌を打った。
数分後、同じ声がした。
「〇〇通りに住んでるってことは、〇大の学生さん?」
一瞬、返事を忘れた。
「……はい」
「近くにボウリング場がありますよね。私、あそこ好きでしてね」
まったく同じ抑揚。語尾の伸ばし方まで。
偶然だと思おうとした。だが次の信号で止まったとき、メーターに目が留まった。走行時間は三分。乗ってから、もう十分は経っているはずだった。
青に変わり、車は進む。
見覚えのあるコンビニの看板が左に流れた。
その数分後、また同じ看板が左に流れた。
私は何も言わなかった。言えなかった。
「〇〇通りに住んでるってことは、〇大の学生さん?」
三度目だった。
私は今度は答えなかった。
運転手は少し間を置き、穏やかに続ける。
「近くにボウリング場がありますよね。私、あそこ好きでしてね」
その直後、足元で小さな衝撃音がした。アクセルでもブレーキでもない、床を踏み鳴らすような音。一定の間隔で、トン、トン、と。
信号は青のまま変わらない。交差点を抜けても、また同じ交差点が現れる。
私はようやく声を出した。
「ここで、降ります」
目的地とは違う場所だったが、構わなかった。
「あれ、そうかい? ここじゃ遠くないかい?」
穏やかな声。
車は静かに路肩へ寄った。メーターは三分のままだった。
料金を払い、ドアを開ける。湿った夜気が一気に流れ込む。
外に出て振り返ると、そこは見覚えのあるコンビニの前だった。だが私は、そこを二度、三度と通り過ぎている。
ドアが閉まる直前、運転手が言った。
「……〇〇通りに住んでるってことは、〇大の学生さん?」
同じ笑顔だった。
タクシーは走り去った。曲がった先は、さっきも曲がった角だ。
私は歩いて帰った。
翌朝、財布の中の領収書を確認した。乗車時間は一時十二分から一時十五分までの三分間。走行距離は一・二キロ。
その区間は、歩いて十五分はかかる。
いまでも夜にタクシーを拾うとき、住所を告げるのをためらう。
〇〇通りに住んでるってことは、と聞かれたら、私は何と答えるのだろうか。
[出典:58: 本当にあった怖い名無し 2015/05/23(土) 18:30:38.27 ID:xoXqerud0.net]