あれから六年が経った。
岡山の夜のことは、記憶の底で湿った石のように沈んだまま、動かずに残っている。忘れたつもりでいても、何かの拍子に指先が触れると、冷えだけが伝わってくる。
今年、Nと再会したことで、それが水面近くまで浮き上がってきた。
正月、大学三回生の冬。
地元に戻った俺とNとIは、駅前の居酒屋で飲んでいた。中途半端な地方都市で、正月にできることもなく、焼酎を空けながら他愛のない話をしていた。
酒が回り始めた頃、Iが唐突に言った。
「最近、住んでるアパートで変なことが起きてさ」
夜中に天井の隅から何かを引っかく音がする。寝ていると体が動かなくなる。大家に言っても天井裏には何もいないと言われた。
Iは笑おうとしていたが、口角が引きつっていた。
くだらないと流そうとした空気を、Nが切った。
「行ってみようぜ。そういうの、嫌いじゃないし」
俺も酒の勢いで頷いた。
翌日、Iのアパートに向かった。
岡山郊外の木造二階建て。築二十年は過ぎている。階段は細く、踏むたびに軋んだ。二〇一号室の壁紙は黄ばんでいて、部屋には乾ききらないカビの匂いが残っていた。
酒とつまみとゲーム機を広げ、肝試しのように夜を過ごした。
深夜二時。
何も起きなかった。
Iはベッド、俺はソファ、Nは床。
それぞれ横になり、意識が途切れたのはそれからしばらく後だった。
午前四時過ぎ、部屋に怒鳴り声が落ちた。
「おらぁッ!!」
跳ね起きた瞬間、視界の端で人影が動いた。
NがIのベッド脇に立っていた。右腕を振り上げたまま、笑っている。
Iは布団を頭まで被り、顔だけ出してこちらを見ていた。声が出ないという顔だった。
「何だよ……」
俺の声に、Nは軽い調子で言った。
「金縛り。Iがうなってたけど起きんからさ」
Nは部屋を見回したと言った。
電気は消えているのに、Iの上だけが異様に暗かった。
影というより、濃さだけがそこに集まっている感じだったと。
「黒いもや、みたいなのがさ。胸の上に、のしかかって動いてた」
俺が言葉を失っていると、Nは続けた。
「勝てるって思ったんよ。瞬間的に」
理由は分からない。ただ、そう判断したと言った。
殴ったら声が出て、暗さは散った。Iの体も動いた。
その言い方が、ひどく引っかかった。
怖かった、とも、危なかった、とも言わない。
ただ、判断の話をしていた。
二週間後、Nは事故に遭った。
走行中の道路に、突然大きな穴が開いた。車ごと落ちた。
ニュースにもなり、現場写真がネットに出回った。
穴の中だけが異様に黒かった。濡れているわけでも、焦げているわけでもない。色だけが違っていた。
見舞いに行った俺に、Nは笑って言った。
「祟りじゃないって。幽霊が道路に穴なんか開けられるか?」
そう言いながら、手はベッドの柵を強く握っていた。
長い入院のあと、Nは就職に失敗し、自衛隊に入った。
鍛え直したい、とだけ言った。
何を落としたいのか、何から離れたいのかは、聞かなかった。
今年、また集まった。
Nは一回り大きくなっていた。肩幅が不自然で、動くたび服が鳴った。
震災対応にも行っているらしい。
気になっていたことを、遠回しに聞いた。
「霊とか、見たことあるか」
Nはしばらく黙ってから言った。
「分からん」
続けて、ぽつりと。
「見たかもしれんけど、それどころじゃなかった」
瓦礫の下から人を引き出すたび、隙間に体を滑り込ませるたび、耳の奥で声がしたという。
意味ははっきりしない。
「おいで」
「まだだ」
そう聞こえた気がしただけだと。
医者にもかかった。診断はストレス性神経過敏。
Nは納得したように頷いていた。
「もう聞こえんし、夢やろ」
そう言って笑った目は、何かを探している目だった。
別れたあと、俺は一人で歩いた。
岡山でも、名古屋でもない街で。
ふと、あの夜のことを思い出した。
黒いもや。
殴る前に、勝てると判断したNの顔。
耳の奥で、空気が動いた。
声がした。
名前ではなかった。
命令でもなかった。
ただ、順番を告げるような、静かな確認だった。
[出典:911 :本当にあった怖い名無し:2012/09/11(火) 23:00:57.42 ID:3VMXduJ2Q]