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中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026

休館日の侵入者 n+

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「館内整理日」という言葉の響きからは想像もつかないほど、休館日の図書館は静かだった。

空調の音と、台車のきしみ、それから自分の靴音だけが、やけに大きく響く。
その日、絵本コーナーの棚を片づけていたら、事務室から上司が駆け込んできた。「さっき、ジイさん来なかった?」――そのはずはない。今日は閉館日で、鍵も全部、職員側からしか開かないのに。

私がその市立図書館でアルバイトを始めたのは、大学二年の春だった。

他にこれといった志望動機があったわけではない。ただ、静かな場所で働きたかったのと、古い本特有のあの匂いが嫌いではなかったからだ。主な業務は返却された図書の配架と、書架の整理。単純だが根気の要る作業だった。

その日は、月に一度の休館日だった。普段は開館前からエントランスに並ぶ熱心な利用者たちの姿もなく、自動ドアの電源も落とされている。通用口から入館した私は、守衛室で手渡された入館証を首から下げ、薄暗い館内へと足を踏み入れた。

休館日の図書館というのは、独特の空気を纏っている。何万冊という書物が発する無言の圧力が、普段の喧騒によって薄められることなく、ダイレクトに肌に伝わってくるのだ。空調の音だけが低く唸るように響き、自分の足音がやけに大きく聞こえる。

その日の私の担当は、一階の奥にある児童書コーナーだった。天井が低く作られ、書架も大人の胸の高さほどしかないこのエリアは、普段であれば子供たちの甲高い声と、それを注意する親たちの囁き声で満ちている。しかし今日は、色とりどりの背表紙が並ぶその空間は、奇妙なほどに静まり返っていた。

私は書架の間に座り込み、乱雑に突っ込まれた絵本を分類記号順に並べ直す作業を始めた。子供たちは残酷なほど正直だ。興味のない本は適当な隙間に押し込み、気に入った本は何度も読み返されて手垢に塗れている。ページが破れていたり、クレヨンの落書きがあったりするものも少なくない。それらを補修用の棚により分けながら、黙々と手を動かし続けた。

指先の水分が紙に奪われ、カサカサと音を立て始める。埃が舞い上がり、鼻の粘膜を刺激した。一時間ほど作業を続けただろうか。集中力が途切れ、ふと顔を上げた時だった。

視界の端を、何かが横切ったような気がした。

私は手を止め、周囲を見回した。円形の低いテーブルと、子供用の小さな椅子が並んでいるだけだ。窓の外は曇り空で、どんよりとした灰色の光が差し込んでいる。誰もいない。気のせいか。再び視線を足元の絵本に戻そうとしたその時、背後から声をかけられた。

「精が出るね」

心臓が跳ね上がった。振り返ると、そこには正規職員の男性、佐久間さんが立っていた。四十代半ばで、いつも穏やかな笑みを浮かべている人だが、この時ばかりは、その表情に微かな影が差しているように見えた。

「お疲れ様です。驚かせないでくださいよ」
私は努めて平静を装い、立ち上がった。膝の関節がポキリと鳴った。

「悪い悪い。集中しているようだったから、声をかけそびれてしまって」
佐久間さんは苦笑しながら頭を掻いた。そして、少し声を潜めて続けた。

「ところで、君がここで作業をしている間、誰か見かけなかったか?」

私は首を傾げた。「誰か、とは? 今日は休館日ですよね。職員の方以外には、誰もいないはずですが」

「ああ、そうなんだが……」
佐久間さんは言い淀み、視線を宙に彷徨わせた。何か言いにくいことがあるようだ。彼の視線が、私の背後にある絵本の棚と、その向こうの壁にある非常口のあたりを行き来している。

「実は、さっき守衛室から連絡があってね。監視カメラに、妙なものが映っていたらしいんだ」

「妙なもの?」

「老人だよ。ひどく痩せた、古いコートを着た老人だ。それが、正面玄関の自動ドアを無理やりこじ開けるようにして、中に入ってきたというんだ」

私は思わず、自分が今しがた入ってきた職員通用口の方角を見た。正面玄関は完全に施錠されているはずだ。電源の落ちた自動ドアを手動で開けるには、相当な力が必要になる。しかも、警備システムが作動しなかったのだろうか。

「警報は鳴らなかったんですか?」

「それが、奇妙なことに鳴らなかったらしい。守衛がモニターを見ていて気づいた時には、その老人はもうエントランスホールを横切って、閲覧室の方へ姿を消していたそうだ」

背筋を冷たいものが走り抜けた。休館日の、人の気配がない図書館。そこに、得体の知れない老人が侵入している。しかも、警備システムをすり抜けて。

「それで、その老人は今どこに?」

佐久間さんは深くため息をつき、首を横に振った。

「それが、わからないんだ。他の職員と手分けして一階と二階の主要な通路は確認したんだが、どこにも姿がない。それで、もしやと思って君のいるこの児童書コーナーを見に来たんだが……」

彼の視線が再び私に向けられた。探るような、それでいて何かに怯えているような目つきだった。

「本当に、誰も見ていないんだね? 物音ひとつ、聞かなかったか?」

私は乾いた唇を舐めた。先ほど感じた、視界の端を過ぎった影。あれがそうだったのだろうか。しかし、確信が持てない。

「……ええ。作業に集中していたので、気づきませんでした。ただ」

「ただ?」

「いえ、気のせいかもしれません。少し、埃っぽくなったような気がしただけで」

佐久間さんは私の言葉に頷き、再び険しい顔つきに戻った。

「わかった。とりあえず、君も作業を中断して、一緒に探してくれないか。万が一、館内で倒れていたりしたら大変だ」

「はい、わかりました」

私は作業用の手袋を外し、佐久間さんの後について児童書コーナーを出た。静まり返った図書館が、先ほどまでとは全く違う、不穏な空間に変貌していた。

佐久間さんと手分けをして、館内の捜索をすることになった。

彼は二階の一般書フロアと視聴覚室を、私は地下の閉架書庫を見て回ることになった。

「何かあったら、すぐに大声を出してくれ。内線電話も近くにあるはずだから」
佐久間さんはそう言い残し、階段を駆け上がっていった。彼の背中が見えなくなると、再び重苦しい静寂がのしかかってきた。私は重い鉄の扉を押し開け、地下へと続く階段を降りた。

地下の閉架書庫は、一般の利用者が立ち入ることのできない聖域だ。ここには、発行年の古い図書や、郷土資料、傷みの激しい貴重書などが眠っている。空気はひんやりとしており、地上階よりもさらに強い、紙が酸化した酸っぱい匂いが充満していた。

照明のスイッチを入れると、蛍光灯がチカチカと頼りなく明滅し、広大なコンクリートの空間を照らし出した。無機質な灰色の電動書架が、まるで巨大なドミノのように整然と並んでいる。その列は奥の闇へと続き、吸い込まれているようだった。

私は足音を忍ばせ、書架の列の間を歩き始めた。
「すみません、誰かいませんか」
声をかけてみるが、返ってくるのは自分の声の反響だけだ。コンクリートの壁にぶつかり、乾いた音となって戻ってくる。

電動書架の操作パネルには、赤いランプが灯っている。ボタン一つで数トンの紙の塊が動くこの装置は、不注意に挟まれれば人間など容易に押し潰してしまう。私はその狭い通路に入り込むことに、本能的な恐怖を感じた。だが、老人が身を隠すとすれば、こうした物陰しか考えられない。

四列目の書架を確認し、五列目に向かおうとした時だった。
鼻をつく異臭が、不意に強くなった。
それは古い紙の匂いではない。もっと生々しい、泥と雨水が混じったような、あるいは長く洗っていない衣類のような、饐えた臭気だ。

私は足を止めた。心臓の鼓動が早鐘を打つ。
匂いは、七列目と八列目の書架の間、その暗がりから漂ってくるように感じられた。そこだけ、空気が淀んでいる。

「……そこに、誰かいるんですか」
恐る恐る声を張り上げる。
返事はない。しかし、気配があった。衣擦れのような、あるいは濡れた靴がコンクリートを擦るような、微かな音が聞こえた気がした。

私は意を決して、七列目の通路へと踏み込んだ。
通路の奥、突き当たりに、黒い影のようなものが見える。古いコートの裾だろうか。それはゆらりと揺れ、書架の陰へと消えたように見えた。

「待ってください!」
私は駆け出した。恐怖よりも、正体を見極めたいという衝動が勝った。
通路を抜け、書架の裏側へと回り込む。
しかし、そこには誰もいなかった。ただ、冷たいコンクリートの壁が立ちはだかっているだけだ。行き止まりである。

「そんな……」
確かに見たはずだ。影が動くのを。
私は周囲を見回した。逃げ場などない。書架の上か? いや、天井までは手が届かない。
ふと、足元に視線を落とす。
灰色の床に、点々と黒い染みが続いていた。水滴だ。
それは書架の側面、分厚い全集が並ぶ棚の方へと続き、そこで途絶えていた。

私はその棚に近づいた。古い文学全集だ。革張りの背表紙がびっしりと並んでいる。
その一冊、深緑色の背表紙の本だけが、なぜか僅かに濡れていた。
手を伸ばし、その本を引き抜こうとした瞬間、背後で「ガタン」と大きな音が響いた。

飛び上がらんばかりに驚いて振り返ると、隣の電動書架がひとりでに動き始めていた。
誰も操作していないはずなのに、モーターが唸りを上げ、重厚な棚がスライドしていく。
「うわっ」
私は慌てて通路から飛び出した。数秒遅れていれば、挟まれていたかもしれない。
書架は鈍い音を立てて閉鎖し、完全に壁となった。

「大丈夫か!?」
階段の方から佐久間さんの声が聞こえた。私の悲鳴を聞きつけたのだろう、血相を変えて駆け降りてきた。
「佐久間さん……今、勝手に棚が……」
私は震える指で閉じた書架を指差した。

「故障か? それとも……」
佐久間さんは険しい表情で周囲を警戒したが、やはり老人の姿はどこにもなかった。
「二階もくまなく探したが、誰もいなかった。トイレも、倉庫もだ」
「ここにも、いませんでした。でも、匂いが……それに、水滴が」
私は床の染みを指差そうとしたが、言葉を詰まらせた。
先ほどまで確かにあった黒い水滴が、跡形もなく消えていたのだ。コンクリートは乾ききっていた。

「……とにかく、一度戻ろう。ここには誰もいないようだ」
佐久間さんは私の肩を叩き、促した。私の見間違いだったのか。いや、あの生臭い匂いは確かにあった。今もまだ、鼻の奥にこびりついている。

私たちは一階へ戻り、守衛室へと向かった。
守衛室には、初老の警備員が青ざめた顔でモニターを睨みつけていた。
「どうでした? 見つかりましたか?」
私たちが首を横に振ると、警備員は「やはり……」と呟き、震える手でマウスを操作した。

「実は、さっきの映像をもう一度、最初から見直してみたんです。そうしたら、妙なことに気づきまして」
警備員はそう言って、録画データの再生ボタンを押した。

画面には、無人のエントランスホールが映し出されている。
時刻表示は一時間前。私が作業をしていた時間帯だ。
やがて、画面の端からその「老人」が現れた。
佐久間さんの言った通りだ。ボロボロのコートを着て、背中を丸め、ずぶ濡れになったような姿をしている。
老人は自動ドアを——手も触れずにすり抜け——、ロビーへと侵入した。

「ここです」
警備員が声を上ずらせる。
「この老人、閲覧室の方へ行ったんじゃないんです」

画面の中の老人は、ゆっくりとした足取りで、児童書コーナーの方角へと歩いていく。
そこは、私が作業をしていた場所だ。
老人は書架の陰に回り込み、死角に入る。
警備員がカメラを切り替えた。児童書コーナーを映すカメラだ。

画面の中央に、床に座り込んで本を整理する私の背中が映っている。
そして、その数メートル後ろ。
老人が立っていた。

私は息を呑んだ。
気づかなかった。全く、気づかなかった。こんなに近い距離に立っていたなんて。
老人は動かない。じっと、私の背中を見つめている。
その顔は長い髪と影に隠れて見えないが、全身から滲み出るような執着を感じる。

「問題は、ここからです」
警備員が再生速度を落とした。コマ送りになる。

画面の中の私が、ふと顔を上げる動作をした。
(視界の端を、何かが横切ったような気がした)
あの瞬間だ。

画面の中の老人が、動いた。
逃げたのではない。隠れたのでもない。
老人は、前傾姿勢になり、猛烈な速度で私に向かって踏み出した。
そして——。

私の背中へ、重なるようにしてぶつかった。
いや、ぶつかっていない。
老人の体は、煙が吸い込まれるように、私の背中へと「溶けて」いった。

次の瞬間、画面の中の私は、何事もなかったかのように立ち上がり、背後を振り返った。
そして、佐久間さんが画面に入ってくる。

守衛室に、重苦しい沈黙が落ちた。
佐久間さんも、警備員も、言葉を失って私を見ている。
私は自分の体を見下ろした。
あの日、作業をしていたあの一瞬から、ずっと感じていた違和感。
喉の奥の引きつり。
鼻について離れない、あの乾いた埃と、饐えた匂い。
時折感じる、背負ったものの重み。

「……君、なのか?」
佐久間さんが、後ずさりしながら掠れた声で言った。

私は答えられなかった。
ただ、わかってしまったのだ。
なぜ、いくら探しても老人が見つからなかったのか。
なぜ、監視カメラに「出ていく姿」が映っていなかったのか。

老人は、出ていってなどいない。
今も、ここにいる。

私はゆっくりと、自分の胸に手を当てた。
ドクン、ドクンと脈打つ心臓の音が聞こえる。
だが、そのリズムの裏側で、もう一つ、別の湿った呼吸音が聞こえる気がした。
私の口角が、意思とは無関係に、微かに持ち上がるのを感じた。

「見つかって、よかったですね」

私の口から出たその声は、私のものだったが、どこか枯れた、老人のような響きを含んでいた。

(了)

[出典:13: 名無しさん@おーぷん:19/02/03(日)23:24:23 ID:Qz2]

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