十年ほど前、小学五年のときの話だ。
あの頃、俺の通っていた小学校で「南中山にぐるぐる様が出る」という噂が流れた。六年生が肝試しをした夜から広まったらしい。特徴は、身体のどこかが回っていること。全身が黒いこと。それだけだった。
俺は興味がなかったが、姉は違った。
「あんた、今夜行くよ」
晩飯のあと、そう言われた。夜の十一時。両親には内緒だった。
自転車は一台。俺が漕ぎ、姉は後ろに乗った。二十分ほどで山の入口に着いた。階段を上がると、空気が急に冷えた。虫の音が遠くなり、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえた。
噂では北側に出るらしい。
姉は懐中電灯を振りながら進んだ。「最近の噂ってね、形が定まらないの」と言った。「でも、年寄りに聞いたら昔から似た話があるって。黒くて、ただ立ってるだけだって」
そのとき、視界の端が歪んだ。
黒い塊が立っていた。
近づいたわけでもないのに、そこにあった。頭から腰までが螺旋状にねじれている。回っているのか、止まっているのか分からない。見ていると、自分の目の奥が引きずられる感覚があった。
声が出なかった。
「ライト貸して」
姉が言った。俺は渡した。姉はそいつの前まで歩いていった。黒いものは動かない。だが、近づくほど、姉の輪郭が揺れた。
「消して」
俺はライトを消した。
闇が落ちた。
何秒だったのか分からない。足元が柔らかくなった気がした。遠くで、布をねじるような音がした。自分の身体の内側が、どこか一箇所だけ回っている感覚があった。
「もういいよ」
姉の声がした。
ライトをつけると、姉だけが立っていた。黒いものはいなかった。
「どこ行ったんだよ」
俺は聞いた。
「さあ」
姉は地面を見ていた。「足、見えたよ」
「足?」
「うん」
それ以上は言わなかった。
帰り道、姉は妙に静かだった。家の近くまで来たとき、突然叫んだ。
「平和に感謝しろよ」
理由は言わなかった。笑ってもいなかった。
翌日、俺は学校で噂を広めた。ぐるぐる様は北側に出る。黒くて、足がある。見ているだけだ、と。
その日から、噂の形が変わった。
腕が回っていると言うやつがいた。顔が裏返っていたと言うやつもいた。触ったと言うやつも出た。見たという報告が増えた。
俺は何も言わなかった。
十年後、Kの部屋でその話を聞き返したとき、俺は軽い気持ちで言った。
「ぐるぐる様って、結局なんだったんだ」
Kは笑わなかった。
「本当に怖かったのは、そのあとだ」
「親に怒られた話か」
「違う」
Kはグラスを置いた。
「あれから、姉貴、身体のどこかが時々回るって言うんだ」
冗談だと思った。
「どこが」
「決まってないらしい。その日によって違うって」
Kは自分の胸に手を当てた。
「昨日は、ここが回ってたって」
部屋の蛍光灯が一瞬だけ明滅した。
そのとき、俺の視界の端で、Kの肩の線がわずかに歪んだ。
回っているのは、最初から向こうだったのか。
それとも、俺たちだったのか。
あの夜、ライトを消したのは、誰のためだったのか。
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