友人の宮崎は、古い木造アパートの一階角部屋に住んでいた。
角部屋というより、建物の裏側に貼り付くような位置だ。ベランダの柵を一つ越えると、裏口へ続く細い通路があり、昼でも薄暗い。住人はほとんど使わず、管理人ですら滅多に通らないらしい。各部屋のガラス戸には厚手のカーテンが掛けられ、外から中の様子はまず分からない。
宮崎は、その静けさが気に入っていた。
ある日の昼、布団を干そうとベランダに出た瞬間、鼻を突く臭いに足を止めた。湿った土と腐肉が混ざったような、思い出したくない匂いだった。子供の頃、夏の終わりに死んだカブトムシをケースに入れたまま忘れてしまったことがある。その時の臭いに似ている。だが、それよりも重く、濃く、喉の奥に絡みつく。
風向きのせいだと思おうとしたが、臭いは動かない。発生源が近い。
宮崎は柵越しに隣のベランダを覗いた。
そこには、黒い布を被せた箱が一つ置かれていた。プラスチックか木箱か、形がはっきりしない。布は湿っているのか、角が重たく垂れ下がっている。隣室のガラス戸は閉め切られ、カーテンの隙間から光一つ漏れていなかった。
一瞬、見なかったことにしようとした。だが臭いが強すぎる。腐っているなら放置はまずい。虫が湧けば、自分の部屋にも影響が出る。
宮崎は周囲を見回し、誰もいないことを確かめてから、そっと布の端を持ち上げた。
中には、黒い塊があった。
それは一つの物体ではなかった。数え切れないほどの虫が絡まり合い、押し合い、蠢いている。種類も揃っていない。羽のあるもの、脚の多いもの、潰れかけたもの。生きているものと死んでいるものが区別できず、全体が呼吸しているように見えた。
宮崎は声にならない声を漏らし、布を落とした。
その瞬間、背中に視線を感じた。
反射的に顔を上げると、隣室のカーテンがほんのわずかに開いていた。暗闇の中から、誰かがこちらを見ている。表情は分からない。ただ、目だけがはっきりとこちらを向いていた。
宮崎は咄嗟に笑顔を作った。「すいません、洗濯物が飛びそうで……」自分でも何を言っているのか分からなかった。
返事はない。視線は数秒続き、すっと消えた。カーテンが閉まる音もなかった。ただ、そこに何もいなくなった。
胸の奥がざわついた。宮崎は裏口へ回り、建物の外に出た。正面玄関から入り直そうとしたが、鍵を持っていないことに気づく。仕方なく、再び裏へ戻った。
通路を進む途中で、嫌な予感が膨らんだ。
隣のベランダに目をやると、黒い箱はなかった。布も消えている。最初から置かれていなかったかのように、床は空っぽだった。
自分のベランダに戻ろうと柵に手をかけたとき、足が止まった。
床一面に、黒いものが広がっている。
無数の虫の死骸。踏み潰されたようなもの、まだ動いているもの。さっき箱の中にあったものと同じだと、考えるより先に分かった。臭いは、今度は確実に自分の部屋から立ち上っていた。
宮崎は叫び声を上げ、大家を呼んだ。管理人も来て、殺虫剤と箒で片付けられた。大家は不機嫌そうに「誰かの嫌がらせだろう」と言い、隣の部屋について聞いても「長く空いてる」としか言わなかった。
その日以降、隣人の姿を見ることはなかった。
箱も、臭いも、二度と現れなかった。
宮崎は引っ越さなかった。理由は自分でも分からない。ただ、ベランダに出るときだけ、今も必ず床を見る癖がついたという。
この話を聞いたとき、俺は一つだけ引っかかった。
宮崎は最初、箱の中を「覗いた」と言った。だが、あれほどの量の虫を、どうやって一瞬で見分けたのか。布をめくった時間は、せいぜい一秒ほどだったはずだ。
あれは、本当に箱の中だったのか。
あるいは、最初から――。
考えたところで、確かめようがない。ただ、裏口の通路を通るとき、今でも俺は無意識に息を止めてしまう。
そこには何もないはずなのに、床だけは、妙に広く見えるのだ。
(了)