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泣かない子 rw+6,511

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西東京のアパートに越したのは、三月の終わりだった。

軽鉄骨二階建て、二階左端の2DK。築二年。可もなく不可もない、ごく普通の物件だった。

私は三十を過ぎた独身で、在宅中心のフリーの仕事をしている。大家は終始どこか警戒した目を向けてきた。だからこそ、近隣には菓子折を持って丁寧に挨拶をする。部屋にいる時間が長いことも、先に伝えておく。

隣は共働きの若い夫婦だった。問題は真下の部屋だった。

何度チャイムを押しても出てこない。だが不在とは違う。ドアの向こうに、こちらの動きをうかがう気配がある。

一週間以上たった日曜、ようやく扉が開いた。出てきたのは柔らかい物腰の旦那だった。

その奥、暗がりに立つ奥さんと目が合った。地味なエプロン姿で、胸に赤ん坊を抱いている。会釈には反応したが、視線は合わせない。赤ん坊は不自然なほど静かだった。

それきり、下の部屋は気配だけを残して沈黙した。

最初の音は、背中に来た。

床に寝転んでいた私の背骨を、下から太い棒で突き上げたような衝撃。

どすっ。

天井を叩く音ではない。床が、内側から持ち上がる。

続けて、DK、寝室、廊下。

どすっ。どすっ。どすっ。

何か固いものを壁や床に投げつける音が混じる。ばたん、ばたん、と戸棚を叩きつけるような音。

やがて、ぴたりと止む。

平日の昼間だけだった。決まって、私しか部屋にいない時間帯。

大家に言っても「他の方は何も」と相手にされなかった。私は黙ることにした。

そのうち、音に声が混じり始めた。

最初は濁った塊だった。

「う゛……で……ぉ……」

何度も聞くうちに、形が浮かび上がる。

「なんで……この……」

そして、ある日。

「なんでこのガキはこぼすんだ」

その瞬間、下の奥さんの胸の赤ん坊を思い出した。

だが、私は別のことにも気づいていた。

泣き声を、一度も聞いていない。

どれほど激しく叩きつける音がしても、叫びが混じっても、赤ん坊の声はない。

通報するべきか考えた。だが躊躇した。もし勘違いなら。もし私の聞き間違いなら。

そのうち、私は音を待つようになっていた。

床に耳をつけ、息を止める。

どすっ。

その振動は、確かに下から来る。だが、ときどき、背中のすぐ下から突かれているようにも感じた。

ある午後、騒音とは別の音で窓を見た。

引っ越し業者のトラックだった。

旦那が荷物を運ぶ。奥さんは白い軽自動車の横に立っている。胸には赤ん坊。

二階からは顔までは見えない。ただ、赤ん坊の目だけが妙に光を反射していた。

やがて夫婦は車に乗り込む。

その瞬間、奥さんの腕が揺れ、赤ん坊のこめかみがドアの角に当たった。

音は聞こえなかった。

旦那は何も言わなかった。

赤ん坊は泣かなかった。

まぶたが、ゆっくりと閉じ、また開く。

風か、揺れか、あるいは。

車は去った。

階下は空になった。

その夜、私は久しぶりに静かな部屋で横になった。

どすっ。

背中の下から、はっきりとした衝撃が来た。

階下には、もう誰もいない。

私は床から飛び起きた。

音は続かない。

ただ、耳を澄ますと、どこかで小さな声がする。

「なんで……」

それが下からなのか、床の中なのか、それとも私の喉の奥なのか、いまだに分からない。

今も私はその部屋に住んでいる。

平日の昼間になると、無意識に床を避けて歩いている。

(了)

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