西東京のアパートに越したのは、三月の終わりだった。
軽鉄骨二階建て、二階左端の2DK。築二年。可もなく不可もない、ごく普通の物件だった。
私は三十を過ぎた独身で、在宅中心のフリーの仕事をしている。大家は終始どこか警戒した目を向けてきた。だからこそ、近隣には菓子折を持って丁寧に挨拶をする。部屋にいる時間が長いことも、先に伝えておく。
隣は共働きの若い夫婦だった。問題は真下の部屋だった。
何度チャイムを押しても出てこない。だが不在とは違う。ドアの向こうに、こちらの動きをうかがう気配がある。
一週間以上たった日曜、ようやく扉が開いた。出てきたのは柔らかい物腰の旦那だった。
その奥、暗がりに立つ奥さんと目が合った。地味なエプロン姿で、胸に赤ん坊を抱いている。会釈には反応したが、視線は合わせない。赤ん坊は不自然なほど静かだった。
それきり、下の部屋は気配だけを残して沈黙した。
最初の音は、背中に来た。
床に寝転んでいた私の背骨を、下から太い棒で突き上げたような衝撃。
どすっ。
天井を叩く音ではない。床が、内側から持ち上がる。
続けて、DK、寝室、廊下。
どすっ。どすっ。どすっ。
何か固いものを壁や床に投げつける音が混じる。ばたん、ばたん、と戸棚を叩きつけるような音。
やがて、ぴたりと止む。
平日の昼間だけだった。決まって、私しか部屋にいない時間帯。
大家に言っても「他の方は何も」と相手にされなかった。私は黙ることにした。
そのうち、音に声が混じり始めた。
最初は濁った塊だった。
「う゛……で……ぉ……」
何度も聞くうちに、形が浮かび上がる。
「なんで……この……」
そして、ある日。
「なんでこのガキはこぼすんだ」
その瞬間、下の奥さんの胸の赤ん坊を思い出した。
だが、私は別のことにも気づいていた。
泣き声を、一度も聞いていない。
どれほど激しく叩きつける音がしても、叫びが混じっても、赤ん坊の声はない。
通報するべきか考えた。だが躊躇した。もし勘違いなら。もし私の聞き間違いなら。
そのうち、私は音を待つようになっていた。
床に耳をつけ、息を止める。
どすっ。
その振動は、確かに下から来る。だが、ときどき、背中のすぐ下から突かれているようにも感じた。
ある午後、騒音とは別の音で窓を見た。
引っ越し業者のトラックだった。
旦那が荷物を運ぶ。奥さんは白い軽自動車の横に立っている。胸には赤ん坊。
二階からは顔までは見えない。ただ、赤ん坊の目だけが妙に光を反射していた。
やがて夫婦は車に乗り込む。
その瞬間、奥さんの腕が揺れ、赤ん坊のこめかみがドアの角に当たった。
音は聞こえなかった。
旦那は何も言わなかった。
赤ん坊は泣かなかった。
まぶたが、ゆっくりと閉じ、また開く。
風か、揺れか、あるいは。
車は去った。
階下は空になった。
その夜、私は久しぶりに静かな部屋で横になった。
どすっ。
背中の下から、はっきりとした衝撃が来た。
階下には、もう誰もいない。
私は床から飛び起きた。
音は続かない。
ただ、耳を澄ますと、どこかで小さな声がする。
「なんで……」
それが下からなのか、床の中なのか、それとも私の喉の奥なのか、いまだに分からない。
今も私はその部屋に住んでいる。
平日の昼間になると、無意識に床を避けて歩いている。
(了)