中学一年の夏、久々に家族揃って実家へ帰省した。
目的はお墓参り。祖父母やご先祖の眠る墓へ、花と線香を持って赴いた。お坊さんが柄杓や桶を貸してくれて、墓石に水をかけ、手を合わせる——田舎ではごく普通の風景だ。
けれど、そのときから気になっていたことがある。
我が家の墓石のすぐ隣に、小さな無縁仏があった。どこから見ても、誰のものとも知れない、風雨に削られた石。その上に、白い粉が山のように盛られていた。盛り塩——とは少し違う。店先にさりげなく置かれた結界ではなく、まるで袋から直接ぶちまけたかのような、荒々しい盛り方。量も異様だった。
「……塩、かな?」
自分以外の家族は何も気にする様子もなく、無言で手を合わせている。あまりに無関心な態度に、こちらも何となく口に出せなかった。「触れてはいけない空気」を察してしまったのかもしれない。
それ以来、実家に帰るたびにその塩は確認できた。何年経っても、誰かが補充しているのか、いつ見ても「新しい盛り方」がされている。誰が、なぜ? 今でも理由はわからない。
そんな謎を胸にしまったまま年月が過ぎたある日、ふとネットの掲示板で「墓石に水をかけてはいけない」という投稿を目にした。
「墓石が傷む」
「故人の頭に水をかけるのと同じ、失礼にあたる」
……え、マジで?
何十年もそうしてきた自分にとって、驚きだった。さらにスレにはプロの石屋が登場し、丁寧な解説を始めた。
曰く、墓石に最適なのは乾拭きと固形ワックス。下手に濡らすと石が水を吸い込み、内部から劣化が進む。車用の安いワックスで構わないが、彫刻部分に入ると汚れが取れなくなるため要注意。実際、きちんと手入れされた墓石は18年経ってもぴかぴかのままだという。
それを読んだとき、なぜかあの無縁仏の塩が頭をよぎった。
水を嫌う石。清めの意味を持つ塩。その塩を、誰かが絶えず補充しているということ。これは、単なる清掃ではないのかもしれない——何かを封じるため。あるいは、誰にも語られない物語の断片。
長野の田舎では、屋根付きの墓が存在するとか。石の屋根に守られた古い墓たち。その周りには、人の気配が漂っていたという。草をむしるとき、背後で「ミシッ」と土が踏まれる音がする。誰もいないのに。子どもが「誰かが後ろにいる。でも全部は見えない」と言い出して、慌てて帰ったという体験談もあった。
——見えない誰か。
墓とは、死者が眠る場所であると同時に、生者が「記憶」を置いていく場所だ。その記憶が濃く染みこんだ場所には、時折、音や匂い、そして気配が残る。
あの無縁仏の塩の山も、ただの“浄め”ではないのかもしれない。誰にも思い出されなくなった石に、誰かが意味を与え続けている。その行為そのものが、供養であり、結界であり——あるいは、見てはいけない何かとの、微かな交渉なのかもしれない。