中学時代の同級生がこんな話をしてくれた。
彼の祖父――もうずいぶん前に亡くなったらしいが――は、かつて朝鮮半島で交易をしていた。ロシア人やタタール人とつながりがあって、中でも一人のロシア人商人とは特に親しかったそうだ。
その男が、ある晩、酒に酔ってぽつりぽつりと話し始めた。話題は、まるで夢の残り滓のような「人狼」のことだった。
「ボルクモルフって言うんだ」
商人はそう呟いた。若い頃、ペテルブルグでリトアニア出身の女に会ったという。痩せて、色の抜けた髪。灰色の目に見つめられると、心の奥にしまっておいた罪が、ひとつひとつ暴かれていくような気がしたと彼は言った。
「わたしは人狼だよ」
そう言って、女は笑ったという。
「変身すると、全部じゃないけど……記憶が欠けるの。夢の切れ端みたいな血の匂いと、遠くの叫び声だけが残るの」
人狼には種類があるらしく、狼に限らず、犬や鹿、魚、霧、さらには石になるものまでいた。なかでも厄介なのは、自分の意志と無関係に変身してしまう者だという。女もその一種だった。
変身のあとの彼女は、自分のしたことを知らない。気がつけば服は裂け、手には血。爪の奥に、肉の繊維が詰まっていることもあった。
「だから、もう会わないほうがいいの。次に会ったとき、あなたの喉に噛みつくかもしれない」
そう言い残し、女は姿を消した。行き先はフィンランド、とだけ。
*
同じロシア人商人がもう一つ奇妙な話をしていた。
帝政ロシア末期、ウラルの奥地――クラスノヤルスクのさらに北。そこに「人間生物兵器」を育てる秘密施設があったという。子供を兵器にする。だが、ただの兵士ではない。
「アントロヒシニク」と呼ばれていた。狼に似た何か。変身するのではなく、もはや人ではない存在。
少年も少女もいたが、少女の方が残酷で、賢かった。
ある生物学者は、こう記したという。
「命令には従う。が、従いすぎるときほど危険だ。やつらは“理解”して動く」
施設では反乱が起きかけた。命令系統は崩れ、制御不能の“獣”がうごめいた。やがて施設は廃棄された。地図には載っていない。今では、雪に埋もれた廃墟が残るだけだという。
「マハチンって知ってるかい?」
ロシア人はぽつりとそう言った。
蒙古の古い伝承に登場する名だ。人の皮をかぶった獣。あるいは、獣の心を持った人間。
女が語った“人狼”と、科学者たちが作り出した“兵器”――その根は、案外近いのかもしれない。
都市には、いまも“それ”が潜んでいる。
霧の夜、誰かがふいに消える。足跡はあっても声はなく、残るのは引きずられた跡と、牙に裂かれた骨。
雪の下には、まだ染みが残っている。
[出典:438 :名無し百物語:2023/12/10(日) 16:40:38.49 ID:SedTic3x.net]