中学時代の同級生が、ある夜、酒の席で妙な話をした。
祖父は昔、朝鮮半島で交易をしていたという。ロシア人やタタール人とつながりがあり、その中に、ひとりだけ特別に親しかったロシア人商人がいた。
その商人が、酔うと必ず同じ女の話をしたらしい。
若い頃、ペテルブルグで会った女だという。痩せていて、色の抜けた髪をしていた。灰色の目に見つめられると、自分でも忘れていたはずのことまで思い出してしまう。罪でも、嘘でも、口に出していない願いでも。
「わたしは人狼だよ」
女はそう言って笑ったという。
変身すると、記憶が欠ける。血の匂いと、遠くの叫び声だけが、夢の断片のように残る。気がつけば服は裂け、爪の奥に肉の繊維が詰まっていることがある。
「だから、もう会わないほうがいいの。次に会ったら、あなたの喉に噛みつくかもしれない」
そう言い残し、女は姿を消した。行き先はフィンランドだとだけ聞いた、と。
商人は、その話をするたびに、決まって自分の喉元を指でなぞったらしい。
*
同級生はそこまで話して、少し黙った。
「うちのじいさんさ、死ぬ前に妙なこと言ってたんだよ」
灰色の目をした女は、日本にも来ていた、と。
祖父は晩年、窓の外に立つ女を何度も見たという。雪の夜でも、雨の夜でも、同じ場所に立っていた。呼び鈴は鳴らさない。ただ、見ている。
ある朝、玄関の前に靴が揃えて置かれていた。女物の革靴だった。泥もついていないのに、底だけが赤く濡れていたという。
祖父はそれを見て、家の奥に鍵をかけ、誰とも会わなくなった。
やがて喉をやられた。病名は別にあったが、祖父は最期まで首に手を当てていたそうだ。
「でさ」と同級生は笑った。「その靴、まだあるんだよ。うちに」
見せてやると言われたが、そのときは断った。酔いの勢いだと思ったし、何より、話の続きを聞きたくなかった。
*
それから数年後、同級生は突然いなくなった。
失踪だと聞いた。部屋は荒れていなかった。ただ、玄関に靴が一足、きちんと揃えて置かれていたらしい。サイズは合っていなかった。
灰色の目の女は、変身すると記憶が欠けると言っていた。
だから、もしかすると。
今もどこかで、自分が何をしたのか知らないまま、霧の夜に立っているのかもしれない。
先週、知らない番号から電話があった。
出ると、息遣いだけが聞こえた。
低く、湿った音だった。
「……あなた、だれ」
女の声だったかどうかは、分からない。
ただ、受話器越しに、喉元がひどく痒くなった。
電話は切れたが、翌朝、玄関の前に見覚えのない足跡が残っていた。私の家の前で、きちんと揃って止まっている。
靴は、まだ見つかっていない。
[出典:438 :名無し百物語:2023/12/10(日) 16:40:38.49 ID:SedTic3x.net]