最初から掴んでいなかった
あれは、俺が鑑識に配属されて二年目の冬だった。
夜十時過ぎ、無線が入った。〇〇町七丁目、ひき逃げ事案。マルタイ死亡の可能性あり。
現場に着くと、雨は弱くなっていた。道路脇に一台の乗用車が停まっている。ハザードが点滅し、その橙色の光が濡れたアスファルトを鈍く照らしていた。
「マルガイはどこだ」
班長の問いに、制服警官が無言で車を指した。
屋根だった。
ルーフキャリアの上に、遺体が横たわっていた。頭部は潰れている。顔の判別はつかない。だが両腕だけが、不自然に持ち上がっていた。
バーを、掴んでいた。
硬直しているにしても、指の角度が違う。引っかかっているのではない。握っている。親指が内側に回り込み、他の四指が反対側から食い込んでいる。
「……検証始めるぞ」
班長の声が、わずかに遅れた。
マルヒは車内で震えていた。供述は混乱している。人を轢いた。衝撃を感じた。停まった。怖くなって発進しようとした。その瞬間、何かがフロントガラスを横切り、屋根へ移動した。
「這い上がってきたんです」
その一点だけ、妙に明瞭だった。
公式記録には当然残らない。轢いた衝撃で跳ね上がり、偶然ルーフキャリアに乗り上げた可能性が高い、で処理された。
だが、俺は写真を撮りながら、ずっと指を見ていた。
現場で最初に見たとき、遺体は確かにバーを掴んでいた。右手も左手も、同じ向きで。
だが、鑑識車に収容する前、班長が「固定しろ」と言って体勢を確認したとき、左手の位置が変わっていた。
バーから外れ、屋根に落ちていた。
「最初からこうだったか?」
思わず聞いた。
「何がだ」
「手です。掴んでたはずじゃ……」
班長は一瞬、俺の顔を見た。そのあと、屋根を見た。
「最初から乗ってただけだ。掴んでない」
言い切った。
だが俺のカメラには、はっきり写っていた。バーを握る指。爪の下に金属の塗装片らしきもの。
署に戻って確認した。
写真の遺体は、バーを掴んでいなかった。
両手は胸の横に落ちている。まるで、最初からそこに置かれていたかのように。
拡大した。何度も見直した。だが、金属を握る指はどこにもない。
翌日、ルーフキャリアから微量の皮膚片が検出された。マルタイのものと一致した。
だが、爪の下からは何も出なかった。塗装片も、金属粉も。
班長はそれ以上触れなかった。報告書も、写真も、すべて整合している。
俺の記憶だけが、整合していない。
あの夜、遺体は確かに掴んでいた。雨に濡れたバーを、滑らないように。
地域課に異動してからも、雨の夜に事故現場へ向かうことがある。ルーフキャリアの付いた車を見ると、無意識に屋根を確認してしまう。
何もない。
だが、雨が強くなると、ワイパーの合間に、屋根を横切る影が見えることがある。
フロントガラスの上端から、ゆっくりと。
掴む場所を探すように。
(了)