これは、ある知り合いから聞いた話だ。
その知り合いの家族は、ある時期○○○会という宗教団体に入信していた。
信仰に没頭し、日々の生活にも変化が現れたという。しかし、しばらくしてその家族は団体から離れることを決意した。すると、信徒たちが家に押しかけてきて、警察沙汰に発展しかねない騒動が起きたのだ。その出来事を知り合いから聞いた時、情報として知っていたものが身近で起こる恐怖を実感したという。
次に、中学時代からの幼馴染であるAという男の話を聞いた。Aとは大学が別々になったが、時々電話で連絡を取り合う仲だった。ある日、Aから「自己開発セミナー」に参加しないかと誘われた。ちょうど就職活動中だったため一度は断ったが、どうしてもと言われ、参加することになった。
当初は日帰りのつもりだったが、実際には二泊三日のセミナーだった。知らされていなかったことに不安を感じつつも、セミナーが始まった。
最初は自己紹介や子供の頃の話など、他愛もない内容だった。しかし、昼食を過ぎたあたりから雰囲気が変わり始めた。キリストを包んでいた布の話が始まり、スライドも使って説明される中で、徐々に宗教色が強くなっていった。
「やっぱりか」と思いながらも、話の内容に興味を持ち、面白半分で聞いていた。しかし、二泊三日はやはり辛く、翌日の就職面接のために帰ると伝えたが、入り口で信者たちに囲まれ、なかなか帰してもらえなかった。最後には強引に脱出し、家に帰ってきたものの、その後も電話攻撃が続いた。
就職活動中で電話を無視できない状況で、信者たちからの「面接よりも大切なことがあるでしょう」という言葉に悩まされた。しばらくして、Aとの関係も薄れ、やがて彼の行方もわからなくなった。
数年後、取引先で待ち時間にテレビを見ていた時、偶然にも満面の笑みで万歳をするAの姿を見た。彼は韓国で行われた統一教会の合同結婚式に参加していたのだ。Aの結婚を祝う気持ちにはなれず、その姿を見て心に深い恐怖を感じたという。
[出典:130 名前:超党派笑いの鉄拳 ◆UXUJJUbRMk 投稿日:02/12/14 17:43]
後日談
あれから十五年。話の当事者である“自分”は、地方都市の企業で中堅管理職として働きつつ、週末は家庭菜園に精を出すという、ごく穏やかな日常を送っていた。自己啓発セミナーの悪夢も、今では「就活時代のトラウマ枠」として酒の席のネタにできる程度には風化していた。だが、記憶の中で曖昧になっていたAの存在が、ある日、再び現実に割り込んできた。
きっかけは、会社の若手社員が回してきた動画リンクだった。タイトルは《“光の連帯”が目指す真の世界平和》。再生ボタンを押した瞬間、画面いっぱいに現れたのは、あのAの顔。あのときテレビで見た笑顔よりも、数段磨きのかかった「選ばれし者」の顔だった。スーツ姿のAが壇上でスピーチをしていた。「この地上に天の王国を築く。それが、我々の使命です」。会場は拍手と熱気に包まれていた。背景には「世界新真理統一フォーラム」という看板。かつての“○○○会”とどこかで分岐した新興宗教らしかった。
気になって調べてみると、Aはすでに「教団の若き理論家」として一部界隈で有名人になっており、SNSでは信者から「師」と呼ばれていた。さらに驚いたのは、教団のYouTubeチャンネルの中に、自分の顔がぼかされて登場する映像があったことだった。「初期の覚者候補の一人」として紹介され、当時のセミナーの様子まで編集されていた。いや、ちょっと待て。それはほとんどストーカーである。しかも自分は覚者ではないし、候補ですらなかった。単なる「逃げた奴」だ。
その晩、自分は珍しく酒をあおった。スマホの画面を睨みながら「こいつはまだ、あの檻の中にいるのか」とつぶやいた。だが、不意に浮かんできたのは、大学時代のAの姿だった。夜中にコンビニで哲学書を読みながらチキンを頬張っていた、妙に純粋で、どこか危うい目をしたあの男だ。
Aは今、「救われた」と思っているのかもしれない。そして、自分は「逃げ切った」と思っている。しかし実のところ、どちらも檻の外には出ていないのかもしれない。檻の名は“信じたいもの”だ。信じたいものがあるから人は依存し、信じたいものがないから人は彷徨う。
翌朝、自分はあの動画を削除し、ブックマークをすべて整理した。Aの人生はAのものだ。こちらはこちらで、トマトの苗を植える季節だった。畑には、何も説教せず、ただ太陽と水があるだけだった。