あれは、妻が妊娠していた頃のことだ。
中期に入ったあたりから、彼女は異様なほど眠るようになった。眠気というより、意識がこちら側に定着していない感じだった。会話の途中でまぶたが落ち、そのまま数時間動かないことも珍しくなかった。
定期検診の際に相談すると、医師は記録を見ながら淡々と言った。
「検査上は問題ありません。同じような症状を訴える方はいます。生活リズムを整えて、軽く体を動かしてください」
その言葉で一度は納得したが、家に戻ると彼女はまた眠った。起きている時間のほうが短くなり、妊娠後期に入る頃には、一日のほとんどを布団の中で過ごしていた。
食事は「食べてる」と言うが、明らかに量は足りていない。頬はこけ、手首は細くなっていった。物音に過敏になり、ドアの開閉や食器の音だけで怒鳴られることも増えた。
平日の私は、なるべく存在を消すように家を出て、帰宅後は寝顔を確認して酒を飲み、そのまま眠った。休日は最低限の家事だけを済ませ、外に出る理由を探しては諦める。家の中は、換気しても抜けない湿気のような空気に包まれていた。
その夜も、私は仕事から帰り、静かに酒を注いでいた。テレビをつけた瞬間だった。
「うるさい」
隣の部屋から妻が顔を出した。青白い顔で、目だけが妙に冴えていた。そこから、言葉が止まらなくなった。結婚前のこと、仕事のこと、私が気にも留めなかった些細な出来事まで、堰を切ったように吐き出される。
なだめようとすると逆効果だった。ガラスのオブジェが飛び、床で割れた。何がどうなったのかは曖昧だ。ただ、最後に彼女は叫んだ。

「もう産んでやるから!」
寝室のドアが閉まり、家の中が静まり返った。私はソファに座ったまま動けず、どれくらい時間が経ったのかも分からなかった。
低いうめき声が聞こえ、はっとして寝室を覗いた。そこにいた妻は、いつもの彼女と同じ姿だったはずなのに、どうしてもそうだと言い切れなかった。目が合ったのかどうかも覚えていない。
気づくと子機を握り、救急に電話をしていた。「もう生まれそうなんです」と、誰かの声のように言っていた。
電話を切った直後、妻が「頭が」と言った。見ると、本当に頭が出ていた。
泣きそうな目でこちらを見る彼女に、私は機械的に声をかけた。「もっと力んで。首が締まる」
次の瞬間、胎盤ごと赤ん坊が滑り出た。
動かない。死んでいるように見えた。でも、触れるとまだ温かい。胸を軽く押すと、小さな声で泣いた。その場で膝が抜けた。
インターホンが鳴り続け、玄関を開けると救急隊員が立っていた。「生まれました」と告げると、赤子と胎盤は銀色のシートに包まれ、妻は担架に乗せられた。
「寒い」と言う彼女に、近くにあった私のジーンズを肩にかけてやった。
その後、子どもは未熟児だったが、問題なく育った。妻も、毎朝六時に私を起こすほど規則正しい生活を送っている。あの頃のことなどなかったかのように。
だが、私は忘れられない。
あの夜、ドアの向こうで妻が「もう産んでやる」と叫んだ瞬間、私は確かに言った。
勝手に生めよ。いつまでもだらだらしやがって。一人で苦しんでるつもりか。誰が働いて金を稼いでると思ってる。お前なんか、畑の腐葉土みたいなもんだ。
あの言葉を。
妻は、それについて一度も口にしない。怒りも悲しみも、存在しなかったかのように、変わらない笑顔を向けてくる。
聞こえていなかったのか。
聞こえていた上で、何も言わないのか。
毎朝、その笑顔を見るたびに、背中に冷たいものが這い上がる。
あの言葉は、今もどこかに残っている気がしてならない。
――完。
[出典:439 :あなたのうしろに名無しさんが……:03/09/10 13:59]