布団の中で握った母の手は、氷よりも静かだった。
それが最初の違和だった。
親父が死んで一年になる。
教会の一周年という区切りに意味は薄いと教義では言うが、残された側にとって暦は刃物だ。否応なく、その日を切り分ける。
あの夜も、教会は冷えていた。
古びた礼拝堂と居住スペースが一体になった、小さな建物。蝋燭と古紙の匂いが混じり、外灯の弱い黄色がステンドグラスを透かして床に落ちる。その色が揺れるたび、温度が一段下がる気がした。
三日間、親父は祈りの部屋に籠もっていた。
静かな祈りではない。一定の間隔で、床に何かが触れる乾いた音がする。額を打ちつけているのかと錯覚するほどの、硬質な衝撃音。
三日目の朝、出てきた親父の顔は蝋のように白かった。
視線は礼拝堂と居住空間を隔てる重い木の扉に固定されている。
「ドア一枚分の顔をした女が来ている」
そう言った。
母を侮辱する言葉を吐きながら、毎晩そこまで来る、と。
母は霊感などない。少なくとも、そう信じていた。
それでも親父は三晩、寝ずに扉の前で祈った。
四日目の夜、三人で礼拝堂に布団を敷いた。
親父は「今夜で決着がつく」とだけ言った。
闇の中で、キンキン、と音がした。
木でも金属でもない、薄く硬い何かが叩く音。間隔が縮まり、連打になる。
俺は目を閉じたまま、隣の母の手を探した。
握り返した掌に、温度がなかった。
血が通っていないのではない。ただ、体温という概念がそこだけ欠落している。
その瞬間、空間が引き剥がされた。
内臓が浮く。意識が遠心力で引き伸ばされる。金縛り。
親父が吼えた。
人の喉を超えた音だった。怒りというより、押し返す意思そのもの。
握っていた母の手の感触が、霧のように消えた。
次の瞬間、布団を母がめくる。
天井に顔があった。
畳二枚分ほどの輪郭。
目や鼻の形は曖昧なのに、嫌悪だけが明確だ。悪意が集合して、顔という形を借りている。
夜明けとともに、それは薄れた。
親父は「百を超えるものが集まるとああなる」と言った。
「目的があるうちは形を保つ。溶け込めば、ただの悪意になる」
それが最後だとも言った。理由は語らなかった。
数日後、子猫を連れた少女と母親が教会を訪れた。
里親を探してほしい、と。
二週間後、引き取りに来た男に猫を渡した。
親父は出張で不在だった。立ち会ったのは俺と母。
その夜、親父は帰宅して言った。
「ケモノの匂いがする」
家中を探し回り、翌朝、里親の連絡先が偽物だと気づいた。
「あの猫は、もういないかもしれん」
親父はそう言い、自分を責めた。
だが親父が本当に恐れたのは、猫の死ではない。
あの夜、俺が握った手の温度。
あれは幻覚だったのか。
それとも、あの瞬間、何かが母と入れ替わったのか。
親父は三日間、扉を守っていた。
だが顔は天井にあった。物理的な境界の外側から。
もし守る対象が扉ではなかったとしたら。
もし守っていたのが、すでに半分ずれていた母の「内側」だったとしたら。
親父の死はその一年後だ。
原因は心不全とされた。過労とも。
だが最後の数ヶ月、親父は母の顔を正面から見なかった。
祈りの言葉も変わった。
悪意を退ける祈りではなく、何かをつなぎ止めるような言葉だった。
今、母は台所に立っている。
番茶の匂いがする。
俺が背後に立っても、振り向くまで一拍遅れる。
その一拍が、昔より正確すぎる。
そして今も、ときどき聞こえる。
礼拝堂の扉ではない。
天井のほうから、キン、と。
[出典:2007/11/05(月) 22:26:21 ID:hsrpxV6l0]