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悪魔憑きと呼ばれた神父 r+3,348

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親父が死んでからちょうど一年。

キリスト教のしきたりでは一周年を区切る意識は薄いと聞いていたが、暦の上での重みは、残された人間には避けがたい。

その夜の教会は、闇を吸い込むように静まり返っていた。親父は司祭という立場ではあったが、都会の大きな教会とは違い、古びた公民館のような小さな礼拝堂と居住スペースが繋がった、質素な建物だった。外灯の光は弱い黄色で、窓のステンドグラスを透かして床に落ちる僅かな色が、寒々しい空気の中で揺れていた。

親父の部屋からは、二日続けて微かな摩擦音が聞こえていた。それは親父が膝をつき、祈りの姿勢を崩さずにいる証拠だった。通常、親父の祈りは静かで、息遣いすら聞こえないほどに深いものだが、この二晩は、まるで額を床に打ちつけるかのように、ごく僅かな衝撃の音が、定期的に響いていた。

台所の換気扇からは、母が淹れた番茶の香りがわずかに漂っていたが、すぐに教会の持つ独特な、蝋燭と古い紙の匂いに飲み込まれてしまう。匂いは体温を持つ。そしてこの教会の匂いは、いつもどこか冷たかった。

三日目の朝、俺は居間で親父を待った。冷たい床に座り込み、天井を仰ぐ。高い天井には、夜間の凍てついた空気がそのまま留まっているようだった。親父が祈りの部屋から出てきたとき、その顔は蝋のように白く、薄い汗が額に張り付いていた。

親父が普段から口にする「不可解な存在」は、この小さな建物に常駐しているわけではなかったが、時折、深い闇を連れてやってくる。そして、それが居座っているときの教会は、体感温度が二度ほど下がるのだ。この三日間は、まさにその状態だった。親父の存在が、かろうじてその冷気を押し留めている。そんな感覚だった。

夜が明けても、親父の瞳の奥には、夜の残滓がこびりついているようだった。その視線は、俺たちを通り越して、居住スペースと礼拝堂を隔てる大きな木の扉に向けられていた。その扉は重厚で、普段は固く閉ざされている。その扉の向こう側に、親父が戦っているものがいる、という無言の主張だった。

この扉は、親父が悪魔憑きと揶揄されながらも、不可解な存在に悩む人々を迎え入れてきた境界線でもある。親父にとっては、聖域を守る最後の砦。しかし今、その砦は、内部からの疲弊によって、今にも崩れ落ちそうに見えた。

俺の胸には、親父への強い羞恥心と、それを打ち消す苛立ちが常に同居していた。

親父は異端的な司祭だった。幽霊の存在を認め、それを「救う」と公言する。普通の信徒から見れば、それは悪魔との取引であり、狂気の沙汰だった。俺は親父の体質を遺伝的に受け継いでいたがゆえに、その羞恥心は特に強かった。

「気分は悪くなるし、突然でてくるとやっぱり怖い」と親父は言っていたが、俺にはその恐怖の実感がよくわかった。慣れる、などというのは、見えない人間の傲慢な想像だ。見えてしまえば、理性の壁を無意味にする圧倒的な「異質」が、常に視界の端でざわめく。

三日連続で続く親父の強烈なラップ音と、寝不足でやつれた姿は、俺の苛立ちを増幅させた。それは「何一つ助けられない自分」への苛立ちだ。俺にできるのは、ただ尋ねることだけ。俺は土曜日で休みだった。重い空気を破りたかった。

「親父、今度はどんな霊が来ているんだ」問いかけた声は、予想以上に小さく、掠れていた。自分の声が、この閉じた空間の中で、いかに無力かを思い知らされる。拳を握り、自分の手のひらに爪を立てる。血が滲むほどの力で。そうでもしなければ、冷静なふりができなかった。

親父はゆっくりと、まるで水底から声を引き上げるように答えた。「ドア一枚分くらいの大きさの顔をした女の霊が、部屋の前のドアまで毎日来ている」その言葉は、まるで熱を持たない塊のように、空気中に浮遊した。母を侮辱する言葉を吐き続ける、というディテールに、俺の眉間の皺が深くなる。

なぜ、母を。俺の内に、急激な不穏な予感が走った。親父が狙われているなら、まだ理屈が通る。だが、体質を持たない母を狙う、その異常な執着に、背中に冷たい汗が流れた。俺は、親父の祈りが、実は「見張り」だったのだと理解した。無視して寝るわけにはいかない。

その夜、礼拝堂の隅に布団を敷き、三人で寝るという提案を親父からされたとき、俺はむしろ安堵を覚えた。恐怖から解放されたわけではない。しかし、一人で戦う親父を、遠くから見ているだけの状態から、ようやく「当事者」の一員になれたという、微かな責任感だった。今夜、何らかの決着がつく。その重い確信が、俺の心臓を不規則に打ち鳴らしていた。布団の中で目をつぶっても、瞼の裏側で、教会の高い天井が迫ってくるような錯覚に囚われた。呼吸が浅くなる。

俺は布団の中で、隣の母の存在を探した。母は普段、この手の話には無関心を装うことで、親父を支えていた。その母が、暗闇の中で俺に手を伸ばしてきたとき、俺は年甲斐もなく、その手を強く握り返した。その掌の温度のなさに、致命的な違和感が瞬時に入り込んだ。

『騙された』。その強烈な認識が、脳を駆け巡った。それは言葉ではなく、全身の細胞が同時に発した警報だった。心臓が跳ね、体が三十メートルも遠くに引っ張られるような、空間の捩れを感じた。俺の死の予感が、この瞬間に極限まで高まった。

礼拝堂の暗闇に、キンキン、と音が響いた。

教会のドアを叩く音だ。ドンドンやカンカンではない。それは木琴の高い音とも違う、なにか硬質で薄い、金属ではない材質の衝突音。そのキンキンという擬音が、その音の本質を的確に表していた。その音は、正常な物理法則から逸脱した、異常な侵入の開始を告げていた。

最初のキンキンから、間隔は徐々に狭くなった。キンキン、キンキンキン、そしてやがてキンキンキンキンと、連続した音に変わった。その音は、親父が語った「ドア一枚分の顔」の存在を、視覚情報抜きで俺の脳裏に焼き付けた。それは、焦燥感、苛立ち、そして異常なまでの「入室」への執着を示す音の反復だった。

俺は布団の中で目を瞑ったまま、隣の母の手を握り返していた。その手は、冷たい。冷たいというより、温度を持たない塊。生者の体温ではない。にもかかわらず、その感触はあまりにもリアルで、皮膚の細かい皺までが、俺の掌に食い込んでいた。その温度のない手の感触が、奇妙な出来事の決定的な「証拠」だった。

手を握り返した直後、全身が急激に引き上げられるような感覚に襲われた。物理的な力ではない。意識と肉体が、突然、遠心力によって切り離されるような、異常な空間の捩れだった。内臓が浮き上がり、胃の中身が逆流しそうになる。俺は金縛りのように動けず、片手だけを上げて、その力に抗っていた。

そのとき、親父が吼えた。それは、人の喉から発せられる音域を完全に逸脱していた。怒号ではあるが、深い洞窟の底から響く、獣の唸りのようでもあった。その音には、親父の怒り、恐怖、そして何かを「押し返す」ための、異常なほどの意思が凝縮されていた。親父は、神父としてではなく、体質者として、あるいは一人の「獣」として、その異常な存在に物理的に立ち向かおうとしていた。

親父の咆哮と、同時に、握っていたはずの「母の手」の感触が、急速に失われていく。掴んでいたはずの皮膚の感触が、霧のように拡散し、ただの冷たい空気が掌に残った。それは、幻覚が破れた痕跡だった。俺を引っ張ったものが、親父の咆哮によって、一時的に退けられたのだ。

金縛りが解けた瞬間、母が頭まで被っていた俺の布団を、乱暴に捲り上げた。俺は反射的に、天井を仰いだ。そこにあったのは、親父の言った通り、巨大な顔だった。畳二枚分ほどの巨大さ。顔の輪郭は曖昧で、夜の暗闇に溶け込んでいるが、その中心にある怒りと憎悪にまみれた嫌な感覚の塊だけが、明確に俺の網膜を灼いた。それは視覚情報というより、精神を直接叩く「嫌悪感」の純粋な集合体だった。

顔は、礼拝堂の高い天井に、貼り付いているというよりは、空間そのものに刻印されているようだった。親父が三日間、徹夜で守ろうとした扉の、遥か上。物理的な防御が一切意味をなさない場所から、それは俺たちを、特に母を、見下ろしていた。その視線は、親父が「母を侮辱する言葉を吐き続ける」と言った、その言葉がそのまま凝固したような、純粋な悪意だった。

夜が明けるとともに、その巨大な顔の輪郭は薄れていき、教会はいつもの、冷たい静寂を取り戻した。俺は、全身の毛穴という毛穴から冷たい汗を噴き出していた。親父は、朝日がステンドグラスを透かして床に色を落とすまで、一言も発さず、ただ座り込んでいた。俺たち三人は、文字通り、あの夜を生き延びたのだ。

夜が明け、親父に尋ねた。

「昨日のは一体何だったのか」親父の答えは、俺の恐怖をさらに深めるものだった。「最近死んだ女を中心に、百を越えるものが集まるとああなるのだと思う」親父は、巨大な顔の背後に蠢く、途方もない数の存在を、当たり前の事実のように語った。それは顔という個体ではなく、集合的な悪意の塊。

「今は目的があるが、そのうち溶け込んで、ただの悪意の塊になってしまう。ああなると神のそばにはいけないな」親父は、まるで研究者が標本を説明するかのように淡々としていた。その「目的」とは、おそらく母への執着。そして、それが「溶け込んで」しまうと、もはや人間的な理屈では対処不能な、純粋な破壊衝動に変わってしまうということだ。

俺は今夜の再来を恐れたが、親父は「昨日が最後だから心配ない」と言い、根拠は教えてくれなかった。その根拠なき確信が、俺には恐ろしかった。それは、親父が、何か決定的な取引をしたのではないか、という疑念を呼び起こした。あるいは、自分の身を盾にして、その悪意の集合体を退けたのではないか。その日から親父は、夜まで寝続けた。

その夜の夕食時、テレビのニュースが流れた。外国人の女性が、近くの街で死体で見つかったという報道だった。遺体は、発見時にはすでにかなり腐敗が進んでいたという。その瞬間、親父がやっと起きてきて、テレビ画面を見つめ、「これだったのかな?」と、誰にともなく呟いた。その声には、疲労と、微かな安堵が混ざっていた。

それが、親父の命を削るようにして戦った相手の「正体」だったのか。目的が達成されたことで、悪意の塊は霧散したのか。俺は親父の安堵を見て、とりあえずは納得しようとした。しかし、その正体と、親父の死闘の間に、論理的な繋がりが見出せないことが、腹の底で澱のように残った。

それから数日後。平穏な日々が戻ったかに見えたが、また別の相談者が教会を訪れた。「拾った子猫を飼ってもらえないか」という、小学生の女の子とその母親だった。教会に寄せられる、よくある「命」の相談だ。親父はいつものように、嫌な顔一つせず、里親探しを手伝った。俺はインターネットで情報を出し、親父と母は近所の店に貼り紙を頼む。子猫は可愛らしく、短期間ではあったが、教会に温かい空気をもたらした。

二週間後、里親が見つかり、遠方から引き取りに来てくれることになった。

受け渡しの日、親父は別の教会に出張で不在だった。母と俺、そして女の子で、里親の山田さん(仮名)に子猫を引き渡した。山田さんは親切な人で、予防接種や去勢も引き受けてくれるという。俺たちは安堵し、子猫のいない寂しさを感じながらも、その命の行く末を喜んだ。

しかし、親父が帰宅した夜、異変が起こる。親父は「ケモノの匂いがする」と言い、鼻をくんくんさせながら家の中を徘徊し始めた。その夜、親父は「猫がいる」と家の中と外を探し回ったが、当然、猫はいなかった。俺は、親父の体調がまた悪化し始めたのだと、静かに恐れた。

次の朝、親父が山田さんに連絡を取ろうとした。ところが、置いていったはずの連絡先は、まったく関係のない電話番号だった。俺は慌ててインターネットで残っている情報から連絡を試みたが、親父は肩を落とし、小さな声で呟いた。「あの子猫、ミキサーに入れられて死んだかもしれん。申し訳ないことをした。かわいそうなことをした」その言葉は、親父が自分自身を罰しているように聞こえた。

親父の予感は、この手の話では必ず当たる。だが、なぜ、親父は連絡先が偽物だと、引き渡しのその場で気が付かなかったのか? 答えは、山田さんが来ていたとき、親父は遠方の教会に出張中だったからだ。

しかし、親父が山田さんと直接会わなかったことが、本当に原因だったのか。俺は、あの夜、親父の咆哮で霧散したはずの「悪意の集合体」のことを思い出す。百を超えるものが溶け込んだ、純粋な悪意の塊。それが、親父が不在の隙を突いて、別な形で「目的」を達成しようとしたのではないか。

——いや、違う。

俺はあの夜、恐怖の中で母の手を握った。その手は、温度を持たなかった。それは、親父が対峙していた巨大な顔が作り出した「幻覚」だった。親父の咆哮で霧散したはずの幻覚。

子猫の受け渡しの時、親父は出張で不在だった。受け渡しに立ち会ったのは、俺と、そして母。

親父は、子猫を引き取った「山田さん」の連絡先が偽物だと知ったとき、子猫の運命を悟り、自分を責めた。しかし、本当に親父が恐れたのは、子猫の死だけではなかったはずだ。

親父は知っていた。自分たちが助けたつもりのあの少女とその母親が、実は、別の「悪意の塊」が生み出した幻影だったことを。子猫の命を、次の目的として教会に持ち込んだ、あの冷たい「幻の手」を持った女たち。

そして、その女たちの目的は、常に母だった。

なぜ親父は、自分が不在のとき、母を受け渡しに立たせたのか。親父は、自分がいると、悪意の集合体が直接的な「力」で襲ってくると知っていた。不在であれば、その悪意は「人間」という欺瞞の皮を被って、より間接的で、しかし確実に心を砕く方法で、家族に近づいてくる。親父は、自分の不在が、この最悪の結末を招いたことを悟り、そして自分を責め続けた。

親父の死は、その自責の念の果てだったのだろうか。違う。

親父は、あの夜の「キンキン」という音を聞いたとき、あるいは、俺が母の手を握ったとき、その温度のない掌を通して、悪意の集合体の一部が、すでに母の体と入れ替わっていたことを知っていたのではないか。

親父が三日間、徹夜で見張ったのは、母を侮辱する言葉を吐く「顔」ではない。すでに半分入れ替わった母が、完全に「それ」に呑み込まれないように、祈りの力でつなぎ止めていたのだ。しかし、咆哮と共に幻覚が霧散したとき、母の体から引き剥がされた悪意の一部が、代わりに子猫を「取引」の小道具として持ち込んだ。

親父は、子猫の死を予見したのではない。親父は、子猫を引き取った「山田さん」を名乗る人物の正体が、入れ替わった母の持つ、悪意の残滓によって生み出された「幻」だったことを悟り、その幻が子猫を殺したと確信した。

親父は最期まで、目の前の「母」が悪意の塊に完全に同一化するのを、耐え続けたのだ。

[出典:2007/11/05(月) 22:26:21 ID:hsrpxV6l0]

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