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快晴だったはずの日 rw+4,090

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今でも、あの山の湿り気だけは、身体の奥から抜けない。

土と苔が混じった匂いが、ふいに鼻の奥で立ち上がることがある。晴れた夜でも、乾いたアスファルトの上でも、首筋に貼りつくような湿気を感じる。あの日から、皮膚の感覚がどこかひとつ、山に置き去りになったままだ。

あれは秋口だった。紅葉にはまだ早く、空は高く澄んでいた。

俺と友人のタケは、山間に残る廃集落跡を見に行った。地図には正式な名称が載っているが、地元では昔から「隠れ里」と呼ばれている場所だ。観光パンフレットには「古民家群跡・伝承の地」と記され、簡単な歴史解説まで添えられている。だが、山麓の商店で道を尋ねたとき、年配の店主は一瞬だけ視線を外し、「奥まで入らん方がええ」とだけ言った。理由は聞かなかった。聞いても答えは返らないと、その声色で分かったからだ。

林道は整備されていた。舗装こそ古いが、崩落もなく、案内板も立っている。小一時間歩けば史跡の石碑に着くと書かれていた。空気は冷えていたが、歩けばすぐ汗ばむ。遠足気分と言ってよかった。

崩れかけた石垣が道の脇に続き、苔に覆われた墓標がいくつも傾いていた。屋根の落ちた古民家の骨組みが、森の奥で黒く口を開けている。人の営みの痕跡だけが、誰にも触れられないまま残っていた。

妙だったのは、静けさの質だ。

鳥の声は聞こえる。風もある。だが、その音がどこか遠い。山の中にいるのに、耳の奥に薄い膜が張ったような感覚があった。

石碑の前に着いたとき、空が陰った。

さっきまでの青は消え、黒い雲が山の上から押し寄せてくる。風が急に冷え、細かな霧雨が降り出した。霧雨はあっという間に粒を増し、葉を叩く音が重なり、白い水煙が視界を奪った。

「屋根のあるとこ、さっきあっただろ」

タケが言い、俺も思い出した。石碑の脇に、簡素な木の屋根がかかっていた。そこへ戻るしかなかった。

軒下に腰を下ろすと、濡れた石と腐葉土の匂いが濃くなった。衣服が肌に貼りつき、指先の感覚が鈍くなる。寒さのせいか、急激な眠気が押し寄せた。雨音が規則的に響き、その振動が鼓動と重なる。

目を閉じた記憶はない。ただ、意識が少しだけ沈んだ。

声で目が覚めた。

最初はタケだと思った。だが、隣を見ると彼は背をもたせ、浅い呼吸を繰り返している。

声は近い。言葉の形をしているが、意味がつかめない。甲高い。複数ある。重なっている。子供が囁き合うようで、同時に何かを責め立てる調子でもあった。

木立の間に、いくつもの影が立っていた。

目が慣れると、その異様さがはっきりした。背丈は三十センチほど。粗い布のようなものをまとい、棒のようなものを手にしている。動きが不連続だった。歩くというより、位置が飛ぶ。古い映像を早送りしているように、瞬間ごとに姿勢が変わる。

立ち上がろうとしたが、身体が動かない。膝から下が自分のものではないように重い。皮膚の下で、細かな泡が弾けるような感覚があった。

影たちは、円を描くように俺たちを囲んだ。

三つの影が前に出る。そのうちのひとつが、俺の膝元で止まった。

顔を上げる。

皺だらけの顔だった。老人のように深い溝が刻まれている。だが、目だけが濡れた黒で、妙に若い。

それが叫んだ。

声は早回しのように跳ね、意味が分からない。ただ、怒気だけは伝わる。棒が振り上げられ、膝へ叩きつけられる。

音はしなかった。

代わりに、冷たい泥が膝に広がる感触があった。皮膚の奥へ、じわりと染み込む。

次の瞬間、声の速度が落ちた。

「カ・エ・レ。デ・ネ・バ。ク・ラ・ウ・ゾ。」

一音ずつ、空気が歪む。顔が目前まで迫る。腐葉土の匂いが生温かく鼻を刺した。

視界が揺れ、世界がひっくり返った。

目を開けると、晴れていた。

雨は跡形もなく消え、空は抜けるように青い。鳥が鳴いている。葉の先に水滴が残っているだけだった。

「見たよな」

タケが掠れた声で言った。彼の顔は蒼白で、額に脂汗が浮いている。

俺は答えなかった。ただ、膝が冷えているのが分かった。

山を下りる間、俺たちは一度も振り返らなかった。足元の苔で何度も滑り、転びかけた。だが、後ろを確認する気にはなれなかった。

町に戻り、車に乗り込む。ラジオをつけると、軽い調子のアナウンサーが言った。

「本日は全国的に快晴でした」

タケが笑いかけて、止めた。

彼の膝の上に、小さな泥の手形があった。子供のような大きさで、五本の指がくっきりと刻まれている。

俺も視線を落とした。

同じ手形が、俺の膝にもあった。

拭っても落ちない。乾いた布でこすると、逆に色が濃くなる。まるで皮膚の内側にあるものが、外へ浮き出てくるようだった。

あれから、夜になると膝が湿る。

布団の中で寝返りを打つと、山の匂いが立ち上る。夢の中で、あの影たちは並んでいる。怒りはない。ただ、無言でこちらを見る。待っている。

何を、とは言わない。

朝、目覚めると、部屋の隅の床が濡れていることがある。雨は降っていない。窓も閉めている。それでも、そこには小さな泥の手形が増えている。

数は、少しずつ増えている。

あの山へ、戻れと言われたのか。出るなと言われたのか。今も分からない。

ただ、湿り気だけが、確実に広がっている。

山は、あの場所にある。

そして、湿った空気は、もうここにもある。

[出典:840 名前: kagiroi ◆KooL91/0VI [sage] 投稿日: 04/12/10 00:22:42 ID:fS2zpXXZ]

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