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隠れ里伝説 r+4,090

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今でも、あの時の湿った空気を思い出す。

鼻の奥にこびりついた、土と苔の匂い。
夏でもないのに、首筋に貼りついたTシャツの感触が、いまだに離れない。

あの日、俺たちは“隠れ里”と呼ばれる山間の集落跡を探していた。
名前だけ聞くと秘境のようだが、地図にも載っている。
観光パンフレットには「古民家群跡・伝承の地」とあり、地元の名所扱いだ。
けれど、地元の老人に訊くと決まって口を濁した。
「……あんまり山ん中へは、入らん方がええ」と。

登山というほどでもない。
俺と友人のタケは軽いハイキング装備で、晴天の予報を信じきっていた。
靴底はまだ新しく、舗装された林道を小一時間ほど歩けば史跡の案内板に着くはずだった。
山の斜面に差す光がやわらかく、湿った土を照らしていた。

最初のうちは、まるで遠足気分だった。
崩れかけた石垣、古い祠、木の根に呑まれかけた墓標。
誰もいないのに、人の手の跡ばかり残っている。
その不均衡が、少し気味悪かった。

だが、下山の頃になって空が急に暗んだ。
さっきまでの青空が嘘のように、黒雲が覆い、風が冷たくなった。
細かな霧雨がすぐに大粒の雨へ変わり、目の前が白く煙る。
木々の葉を叩く音が一斉に響き、体温が急激に奪われていく。

「どっか屋根のあるとこで雨宿りしよう」
タケが言い、俺も頷いた。
さっき見た石碑に簡易屋根があったのを思い出し、そこへ戻ることにした。
五分も歩かないうちに、木々の隙間から灰色の屋根がのぞいた。
雨脚が強くなり、身体の芯まで冷えていた。

軒下に腰を下ろすと、土の匂いに混じって、濡れた石の匂いが立ち上った。
頬に張りついた髪の先から水が垂れ、膝のあたりで小さく跳ねる。
身体がじんわり温まる代わりに、急激な眠気が押し寄せた。
雨音が鼓動と重なり、意識がふわりと沈む。

誰かが話している声で目が覚めた。

最初はタケかと思った。けれど、隣を見ると彼もぐったりと背をもたせている。
声は確かに近くからする。
言葉のようで、意味を成していない。
甲高く、子供がふざけているような――だが、その調子が妙に規則的だ。

木々の間に、数人の影が立っていた。
太陽はまだ高いのに、森の中は夕暮れのように暗い。
目が慣れてくると、その影が人ではないと分かった。
身の丈三十センチほど、粗末な布をまとった小さな人影。
小動物のようにすばしこく動きながら、棒のようなものを振っている。

立ち上がろうとしても身体が動かない。
全身が鉛のように重く、皮膚の下で何かがピリピリと泡立つ。
その間にも小さな影たちは、こちらをぐるりと取り囲んでいた。
動きは断続的で、まるで古いフィルムを早送りしているようだ。

冷たい汗が背を伝う。
空気がぬめり、喉の奥が張りつく。
三人の影が特に近づいてきて、うち一体が俺の膝元で立ち止まった。
顔を上げると、深い皺の刻まれた老人のような顔。
だがその目は異様に若く、黒目が濡れていた。

そいつが何かを叫ぶ。
早回しのような声が高く跳ね、言葉が分からない。
怒鳴っている。怒っている。
棒切れを俺の膝に叩きつけようとする。
しかし、音はしない。
その代わり、膝に冷たい泥が染み込む感触だけがあった。

次の瞬間、声がゆっくりになった。
「カ・エ・レ。デ・ネ・バ。ク・ラ・ウ・ゾ。」
音の間が広がり、空気が歪んだ。
顔がすぐそこにあった。
腐葉土の臭いが生温かく鼻を刺す。

視界が滲んで、世界が反転した。

目を開けると、光が差していた。

雨は止み、鳥の声がどこか遠くで響いている。
空は抜けるように青く、木々の葉が濡れて光っていた。

「……夢か?」
声を出すと喉がひりついた。
隣ではタケがうずくまり、全身びっしょりと汗をかいていた。
顔を覗き込むと、彼は飛び上がるように目を見開いた。
「あれ、見たよな? あれ、何だったんだ……!」
震える手が俺の袖を掴んだ。

俺たちはほとんど無言で山を下りた。
何度も足を滑らせ、苔の上に膝をついた。
風が乾いてくるにつれ、夢の中の湿り気だけが皮膚に残った。

町に着いてから、やっと呼吸が整った。
車に乗り込み、エンジンをかける。
ラジオからは天気予報――「今日は全国的に快晴でした」。
タケが笑おうとして、唇を噛んだ。
彼の膝の上に、泥の手形があった。
子供のように小さく、五本の指がはっきりと刻まれていた。

しばらく沈黙の後、俺の膝にも同じ手形があることに気づいた。
拭っても消えない。
むしろ、こすればこするほど皮膚に染み込むようだった。

それ以来、夜になると膝がじっとりと湿る。
布団の中で寝返りを打つたび、あの山の匂いが鼻をつく。
夢の中では、あの小さな影が並んで立っている。
彼らはもう怒っていない。
ただ、口を開けずにこちらを見ている。
まるで、俺たちの帰りを待っているかのように。

朝、目が覚めると、部屋の隅の床が濡れている。
そこに、また小さな泥の手形が増えていた。

――雨の音はしない。
それでも、空気が少しずつ湿っていく。

俺は分かっている。
あの「隠れ里」は、まだそこにある。
そして――きっと、ここにも。

[出典:840 名前: kagiroi ◆KooL91/0VI [sage] 投稿日: 04/12/10 00:22:42 ID:fS2zpXXZ]

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